夢の海

――すべてうつろうその果てに――

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成長する悲しみ

悲しいことがありました。
いえ、本当は悲しいことではなくて、嬉しいことです。

ずっと更新されていなかった日記が、久しぶりに書かれました。
もう前の日記は2年前? 3年前? もしかしたら5年以上前かもしれません。

当時、おそらく大学一年生か二年生だった彼の日記は、いつもどことなく暗く孤独でした。
大人から見たら、それは少しばかり笑止な孤独だったかもしれません。
青いことを言っているように思えたかもしれません。
でもわたしには懐かしいところがあったのです。

彼はよく読んだ本のことを書いていました。
ドストエフスキーを読んだことや、トルストイを読んだこと。
それから実人生にはあまり興味がなさそうで、投げやりでした。
人に溶け込めず、心は引きこもりがちでした。

彼と同じように文学好きだったわたしはかつて、彼と同じように孤独を偏愛しました。
自分は一歩外から人や世の中の動きを見ているような気がしました。
皮肉な見方をする自分が愛しいような、周囲に溶け込めない可哀想な自分が愛しいような、
そんなナルシズムになんとなく溺れていました。

そういうふうに口に出してみると照れてしまいます。
でも若い時には、そういうふうに思うことがあるものです。

久しぶりの彼の日記は、本のことなどはもう一言も書かれていませんでした。
孤独も、ナルシズムも、青さもありませんでした。

とても難しい資格試験を受けたこと。
結果が出ていないのでドキドキしていること。
点数は足りていると思うが、諸事情もあって合格するかどうか心配していること。

そして最後は前向きに、「でも結果が分からないのが人生だ、分かっているところから頑張っていこう!」と結んでいました。

そのとおりです。
そして彼はとうに大人になっていたようです。
難しい試験を受ける優秀な人になっているようです。

おめでたいことです。嬉しいことです。

――でもやっぱり・・・・・・喪失感が湧いてくるのを止めることはできません。
もう若い彼、青い彼はいない、ということ。
喪われてしまったということが、ちょっとだけ悲しく思えます。

もう一人、彼と同じくらいの若者を知っています。
インターネットの日記でだけですが。

もう一人の若者は、明るくて前向きで、がむしゃらでした。
社会人になってからは、日記を書く頻度が少なくなりましたが、時々書いています。

そう――彼も成長しています。

明るくて、前向きで、学生時代も社会人になってからも友達や先輩や後輩と仲良し。
学生時代も頑張っていたし、社会人になってからも頑張っています。
がむしゃらです。

ですが「がむしゃら」の内容は少し変わってきたのです。
社会人らしい言葉遣いも覚えました。
会社員らしい考え方も身につけました。
壮大な、まさに「ドリーム」といった夢が、もっと現実的な目標に変わっています。
それは大きな目標ですが、「夢」というだけではなくて「目標」「ゴール」です。

大人になったんだね、とまぶしく見上げます。
成功するといいね、と応援する気持ちになります。

――でもやっぱり・・・・・・喪失感はあります。
成長に伴って、喪われるものもあるからです。

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海の太陽

海の太陽


海の上に太陽が昇って、

海に光の道ができる。

ここを歩いていけば、

どこかに到達できそうな。

遥か彼方の夢幻の世界につながっているかのような。

この道を歩けると信じることはできない。

だって海の上だから。

だから一歩を踏み出すことはできないけれど・・・・・・

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今年の催しもの

世の中にはたいしてお金のかからないイベントや遊びがあって、そういうものを利用するのがわたしのような庶民の喜びです。
実家の母などと比べると、わたしはイベントの数には恵まれていると思います。
年老いた祖母の世話もあるので、母はそれほど遠くには出かけません。
わたしもそれほど遠くには出かけませんが、実家よりは東京の方が大きなイベントも多いです。

毎年2月くらいになると、「去年はあまりいろいろなところに行かなかったから、今年は行ってみたいなぁ」と考えて計画を立てます。
毎年同じことを思っているのですから、毎年たいして出かけていないことが分かります。
せっかく恵まれているのに、あまり利用していないと、毎年ため息をつき、毎年「今年こそは」と思います。

春になるといろいろな花が見ごろになるので、春は植物園などに行きたいと思いつきます。
梅は、桜は、バラは――あそことあそことあそこと――
ガーデニングショーなども開催されるので、入場料の額がそれほどでもなければ行きたいな、などと考えます。
カレンダーや手帳などに、行きたいところを書き込んだり、年間予定表を作ってみようと思ったり。

夏はいろいろなお祭りがあるので、有名なところを今のうちから考えたりします。
夏祭りもあるし、ほおずき市や朝顔市もあるし、麻布祭りなどは国際色豊かで楽しいし――
そういうお祭りは入場料なんてかからないので、屋台で何かを食べるお小遣いだけあれば出かけていくことができます。
あそこのお祭りと、あれとあれに行きたい――
まだ冬なのに、夏を想像して予定を書き込んだり。

秋は紅葉の名所を回ってもいいし、秋の花を見に行ってもいいし、秋のお祭りもあるし――
無料で楽しめるコンサートやショーやイベントも多くなる時季、入間基地の航空ショーも秋に行われます。

冬はあちこちのクリスマスイルミネーション、クリスマスイベント、世田谷の蚤の市は行きたいと思いながら一度も行ったことがありません。

以前行って楽しかったイベントは、「今年こそまた行きたい」と予定を入れます。
一度は行ってみたいと思いながら未体験のイベントは、「今年こそ行きたい」と予定を入れます。
花の季節を調べて、この名所とこの名所に行ってみたい、と予定を入れます。
各地の面白そうなイベントを探して、予定を入れます。
無料コンサートの紹介をしている雑誌を開いて、とりあえず1月2月の公演情報を書き込み、来月からもこの雑誌を見ようと思います。

そして結局、夏くらいになると予定表はすっかり忘れられてしまって、ただ毎日を過ごしています。
思い出したように「そういえば今頃の時季は、あそこに行きたいと思っていたんだっけ」と予定表を開いてみることもありますが、秋にはそんなこともなくなっています。

そしてまた冬になると、「来年こそは」「今年こそは」と思って計画を立てるのです。

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壁



冬の人気(ひとけ)のない建物。

工場? 倉庫?

休日なので働く人はおらず、
寒いので遊ぶ子らもおらず。

ただ黙って
太陽の照り輝く光を受けてる。

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旬の野菜

年が暮れる頃、田舎から野菜が送られてきた。
ほうれん草と小松菜。

葉ものはすぐに使わないと、あっという間に萎れて黄色くなってしまう。
田舎の家ではこんなにすぐに悪くならないのに、都会の密閉された部屋では驚くほど早く駄目になる。

おひたしにして、なんなら年越し蕎麦に入れてもいいということにしよう。
そう話してとりあえずゆでた。
最初から蕎麦に入れてしまわないのは、夫があまり青菜を好まないからだ。
駄目だった場合、葉を取り除いても汁に匂いがついてしまって食べられない。

台所で湯の中にほうれん草を入れようとしたときから、彼は驚きの声を上げていた。
匂いがきついようで、臭い臭いと言う。
やはり別茹でにしてよかった、と思った。

実際に食べたときも、ひと口噛んで、すぐに口から出してしまった。
「食べられない」と言う。
冬場のほうれん草は硬い。
葉が厚くて、色も濃い。
そして青っぽい匂いがきつかった。

年を重ね、「野菜もたくさん食べなきゃ」とお互いに言い出し、だいぶ食卓に野菜がのるようになった。
ほうれん草のおひたしは野菜料理の中でも夫が気に入っているほうだ。
それなのにこの結果。
小松菜のほうは箸もつけなかった。

2ヶ月くらい前にある人が熱く語っていたのを思い出した。
「実家の父が千葉で野菜を作っているので、送ってもらうんですけどね。
特に旬のものを食べた後は、スーパーで売ってる野菜が食べられなくなるんですよ。
香りも全然違うし。味も違うし。本当に野菜の味がするんです。
夏にきゅうりを送ってもらって食べると、きゅうりってこんな味だったんだ!って。
その後でスーパーのものを買っても、食べられないんです。
味も薄いし、香りも全然ないんですよね。
もちろん何ヶ月も経てば、旬の野菜の味も忘れてしまって、スーパーのきゅうりでも食べられるようになるんですけど」

そのときも納得したのだが、納得と実感は違うのだなぁ、と思った。
自分が食べようとしてみると、確かに匂いが全然違う。
味も濃厚である。

この野菜は家で作ったわけではない。
「産直センター」なるものがあちこちにあり、そこで買ったものだ。
スーパーの野菜と同じような感じでビニール袋に入っているが、泥がついていたりするし、穴があいている菜っ葉でも売っている。

そういえば、わたしもこういうところで買った人参は苦手だった、と思い出した。
わたしの嫌いな人参のあの嫌な匂いが鼻につく。

スーパーで買ったものや外食のサラダに入っているものを食べて、「最近は人参を食べられるようになった」と思っていたが、どうやら違うようだ。

しかしスーパーで買う野菜にしても、どこかの畑で作られているもののはずだが、何が違うのだろうか、と不思議になった。
産直センターで売っているのは、大々的に出荷するものではない。
袋詰めも売主が自分で適当にしたものだ。
出荷のために大規模に作る野菜と、自家消費用の野菜とでは栽培方法も違うということなのかもしれない。
産直センターで売っている野菜に空いている穴は、スーパーの野菜にはない。
スーパーにはこんなに硬く厚いほうれん草は並ばない。

実家ではなけなしの畑さえ今ではなくなってしまい、わたしにとっては不思議のひとつ。
でも知っている人には常識なのだろうな。

――そう思いながら、硬いほうれん草と小松菜を一人で食べた。

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日の出

日の出


昇る朝日よ

照らす光よ

湖に落ちる日の影よ

雲も風も貫いて、
朝の光がどこまでも

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年賀状

頻繁に連絡を取り合う知人もいれば、年賀状くらいしかやりとりのなくなった知人もいる。
若い頃は、儀礼的な「年賀状制度」というものに反抗的な気持ちを抱いたこともあった。
しかしある時期から、こういうものもいいと思うようになった。
連絡が途絶えた友人知人の消息を知る手段になるからだ。
年に一度、こういうことがあってもいい。
それが欧米だったらクリスマスカードなのかもしれない。



N.Kさん
仕事が大変だっていう話を聞いたまま、その後メールをしていなくてごめんなさい。
やっぱり大変だったんですね。
わたしも去年はひどかったんです。
今年はもう少しお話したいですね。

O.Mさん
木彫り、続いているんですね!
ワンちゃんや家族の写真の年賀状の中で、木彫りの小さな干支は素敵でした。
「形になる趣味を見つけたい」という気持ちから始まったホルツフィグア、すっかり趣味になりましたね。

F.Nちゃん
すごい!
ついにチェロでデビューを果たしたんですね。
そういえば、チェロを始めたというのも年賀状で知ったんですよね。
あの年賀状がもう3年前のものなんですね。
あの時は、何か打ち込める趣味があるっていうことで羨ましく思ったけれど、今年は素直に読めました。
わたしは今も「これこそ!」と言えるものがないのだけれど、なぜか素直に読めました。
「これこそ!」というのはないけど、でも打ち込めるものは見つけた気がするの。
単に楽しくてやっているだけだけれど、今は自分が楽しんでいるということを認めているから、だから素直なんだと思う。
今度、演奏会があるときは聴きたいです。知らせてね。

N先生
実は毎年「お元気ですか?」という同じ一言しか書かれていないのですが、有難いです。
優しいお気持ちを感じて、嬉しくなります。
お元気でまだお仕事をされていらっしゃるのですね。

N.Tさん
辛い一年でしたね。
でもその前の年もやっぱり大変だったし、本当に――体のことは、言葉もありません。
頑張ってください、というのも違うし、大事にしてください、というのも違うし、何と言っていいか分かりません。
何もお役に立てなくてごめんなさい。
お食事を作りに来てくれたり、励ましに来てくれたりするお友達がいて、本当によかったですね。
月並みな言い方だけれど、N.Tさんの人徳なのだと思います。
わたしも今度、伺ってみようと思います。
短い時間で失礼するようにしますね。



・・・・・・。
年賀状に書かれた一言二言を読んで、いろいろな返事が浮かんだけれど、そのままになっている。
また一年後に、自分も一言を書き、相手も一言を書いてくる時まで、このまましまっておくかもしれない。

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夜明け

夜明け


寒い冬の朝まだき。

稜線をうっすら染める夜明けの光。

日が昇る――!

期待に満ちた静寂が、あたりに満ちる。

もうすぐ、ああ、もうすぐ
日が昇る!

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