夢の海

――すべてうつろうその果てに――

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小春日和

「今日は小春びよりだ」というような日が、これからの季節は増えてくるだろう。

「小春日和」は、春の暖かくて心地よい陽気と思ってしまうことがあるけれど、春には使わない。
冬の初めの、暖かい穏やかな気候を言う。陰暦十月頃の春のような天気のことだ。
晩秋や冬に、まるで春のような陽気に思える日があるが、そのことだ。
俳句の季語としては、「冬」になる。

これについては、プロの俳人でさえ小春日和という単語を春の季語として俳句で使っている、と高名な識者が指摘している。
それを聞いてわたしも、「小春日和」という言葉の正式な使い方を知った。

アメリカの「インディアンサマー」も同じ意味で、晩秋の春のような日が続く時期のことらしい。
遠く離れた地にも同じような季節の移り変わりがあると思うと、親近感がわく。
ヨーロッパのいろいろな国にも言葉は違えど、同じ意味の単語があるそう。
四季がある程度はっきりしているところでは、「小春日和」があるものなのかも。

せっかく知ったのだから、間違えて春に「今日は小春日和であったかいねぇ」などと使わないようにしたい。

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赤よ、赤

赤よ、赤


空に散り敷かれた赤よ、赤。

緑の季節の終わりを告げて、
空に燃えさかる赤よ、赤。

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言葉の変遷

ジェイン・オースティンの「ノーサンガー・アビー」という小説を読んでいて、知的な青年がヒロインをからかう場面に出会った。

このヒロインはわざとヒロインらしからぬ造形をされていて、特別なところなどない普通の女性なのだ。
当時の小説では、できすぎた人格および品格のヒロインが、過酷な運命に翻弄されつつも気高く乗り切ってゆく姿が描かれることが多かったので、わざと平凡な女性らしく造られている。
わたしにも覚えがある若いばかばかしい友情ごっこを堪能し、勉強嫌いだったため知的レベルは平凡だし、恋愛も平凡。

ずいぶん前に、若い女性が何にでも「カワイイ!」という形容詞を使うことが指摘されていたことがあった。
その前だか後だか忘れたが、何にでも「超」をつけることが指摘されていたこともあった。
今は若者言葉とは当時よりさらに無縁になってしまったので、どういう言葉が流行っているのか分からないが、「最近は言葉が乱れている」と言われることがまったくないわけはないと思う。

「ノーサンガー・アビー」は十八世紀末のイギリスで書かれた小説だが、同じような場面を発見したのだ。
当時は詩を読むのは高級だと思われていて、小説を読むのは低級だと思われていた。
ヘンリーが「自分も小説を読むし、楽しむ」と言ったので、ヒロインのキャサリンは言う。

「それを聞いてほんとにうれしいわ。もうこれからは、『ユードルフォの謎』が大好きだということを恥ずかしいと思ったりしません。でもほんとに私、若い男性は小説をすっごくアメイジングリー軽蔑していると思ったんです」
「ほう、それはほんとに驚きですね。若い男性がほんとに小説を軽蔑しているとしたら、ほんとにすっごく驚きです」

(ヘンリーは、若い女性がamazingly「驚くほど」という言葉を強調語として多用する風潮をからかっている)という訳注があった。
さらに会話は続き、キャサリンは言う。

「でもほんとに、『ユードルフォの謎』は世界一すてきナイスな本だと思いませんか?」
「すてきな本? それはきちんとした本という意味ですか? 本がきちんとしているかどうかは、製本しだいですね」

(ヘンリーは、nice「きちょうめんな」「好みがやかましい」という言葉が、「すてきな」という意味で多用される風潮をからかっている)という訳注があった。
「nice」という単語は、もうわたしにとっては「すてきな」という意味しかない。
昔はそのような意味があったとは驚いた。

「お兄さま、そういう言い方は失礼よ」とミス・ティルニーが言った。「ミス・モーランド、兄はあなたを妹と同じに扱っているんです。兄は、いつも私の言葉づかいのあら捜しをしてからかうの。それであなたにも失礼なことを言ったんです。兄は、あなたの(すてきなナイス)という言葉の使い方が気に入らないの。すぐに言い替えたほうがいいわ。そうしないと、帰るまでずっと、ジョンソン博士(「英語辞典」1755年)とヒュー・ブレア(「修辞学論」1783年)に悩まされるわ」
「私は間違ったことを言うつもりはなかったんです」とキャサリンは言った。「でも、あれはほんとにすてきな本です。なぜそう言ってはいけないんですか?」
「いや、おっしゃるとおりです」とヘンリーが言った。「今日はとてもすてきな日で、ぼくたちはとてもすてきな散歩をしていて、あなたたちふたりはとてもすてきなお嬢さまです。いや、ほんとにすてきな言葉だ! 何にでも使える。でももともとは、(きちんとした)(適切な)(繊細な)(洗練された)という意味で使われていたのだと思う。たとえば、服装がきちんとしているとか、意見や好みが適切である、というぐあいにね。ところが最近は、何でもかんでもその言葉で褒めるようになってしまった」

これを見ていると、言葉は流行でいつのまにか変わって行くものなのだとつくづく思わされる。
今はおかしいと思っていることも、やがてそれが正しい使い方になっていく。

何年も前に使われていた流行語や、間違った使い方が、だんだんと市民権を得ているのを目にすることはある。
自分は抵抗があってやはり使えないけれど、当時若者だった使用者たちも大人になり家庭を持っている。
「今どきの若い者は!」と言う立場になった人たちが、誤用をそのまま使い続けている。

でもそうして言語というものが変遷していくものなら、一個人がとやかく言うものではないのかもしれないな、と思う。

一方で、識者は正す努力をすべきで、わたしたちは正しく使う努力をすべきで、少しずつ変化するのはいたしかたないとしても、無法に使うことはできるだけ避けなければならないのではないか、とも思う。

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地上の光

地上の光


秋は地上に光が留まる。

光りはあちこちで踊る。

チカラシバの穂の間でも踊っているし、
細く長く弧を描いた葉先でも踊っている。

草の間を駆け抜けていく風と共に踊っているし、
風に揺れる野菊の花びらとも戯れている。

散歩するわたしの靴の先でも
ステップを踏んでいる。

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わたしの秋

外国の小説を読んでいると、同じように四季を語っていても、やはり季節が違うと感じることがあります。

秋は、光に溢れ、きらきらと輝き、美しいものです。
それは日本でも感じるし、ヨーロッパの小説にも書いてあるのですが、でもきっとやっぱり違うのです。

わたしは特に、関東を離れたことがありません。
ですから、長い冬を前にした秋の切ないほどの美しさを、本当には知らないのだと思います。
ヨーロッパの冬は長い――とても長いようです。
その分秋は短く、気づくと枯れ果てた世界にとって代わられているのです。
終わりが見えているときの美しさは切なさも加わり、悲しみも加わり、燃え上がります。

夏を名残惜しむ気持ち、秋を痛いほど愛する気持ちは、わたしとは違うのだと思います。
わたしにはもう少し秋は長く、冬はそれほどの重みを持って襲ってこないからです。

土地によって違いはあるので、ひと口に「ヨーロッパ」「日本」とは言い切れません。
だからひとからげにして言い切ることはできません。

でもやっぱり、それは確かなことなのですです。
わたしの知っている冬が違うから、わたしの味わう秋も違うのです。

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空の柄

空の柄


青い地色に柄を散りばめ、秋の空。

一枚一枚描くもよし、
ひと筆ふうわり描くもよし。

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スカルラッティの秋

秋にはスカルラッティが似合う。

休日の朝10時、スカルラッティのチェンバロソナタを聴いていて思いました。
爽やかで明るくて、晴れた秋の朝にはよく合います。

どことなく物悲しい調べが混じってくるときは、それはそれで秋に合う気がしてきます。

ピアノではなくて、チェンバロの演奏が良いです。
その方が秋をより感じられる気がします。

規則的で明快なメロディが、秋に合っている気がします。
明るくて光に満ちた午後、自分の心は落ち着いて静謐なとき、スカルラッティはその気持ちにぴったりと寄り添ってくれます。
他にもチェンバロ曲を書いている作曲家はいて、旧い音楽は規則に従ったメロディを持っているけれど、やっぱり他の誰よりもスカルラッティがいい――と思います。

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季節が移る

季節が移る


季節は移る。
蒼から赤へ。
翠から黄色へ。

空は移る。
影の濃い青から、
澄んだ青へ。

光は移る。
白熱した光から、
こがね色の光へ。

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