夢の海

――すべてうつろうその果てに――

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人が集まるとき

子供の頃、特にお正月が好きだということはありませんでした。
大掃除を手伝うのは、終わりが見えないので好きではありませんでした。
三が日には、行きたくなくても行かなくてはならないところがいくつもあるので、面倒でした。
父や母が家にいてくれて嬉しいという気持ちは特にありませんでした。
後年の母はサービス業に従事したので、家にいないこともありましたし。

そういうわけで、また子供の頃に戻りたいかどうかは疑問ですが、人が揃っているお正月の情景は、懐かしさを呼び覚まします。

もはやこの世にはなくて、席についていない家族。
大人になるといろいろな事情や仲違いがあり、同じ席につかない家族。
大量に作っても余ってしまうので、お重に詰めることはなくなったおせち。

子供がいないというのは、こういうときに悲しいものです。
いなくなった人の席を埋める新しい顔はなく、先細りになるだけだからです。

大人だということは、こういうときに困るものです。
仲直りは単純にはできず、様々な副作用を受け入れる覚悟がなくてはできないからです。

子供だった頃のお正月の煩わしさが、あまり可愛らしい理由によるので、本当に懐かしくなります。
こうして今年も暮れていきます・・・・・・

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冬空晴れて

冬空晴れて


冬空晴れて、木々の幹が黒く照り輝いていた。

雲は白くたなびいていた。

冬の朝はさわやかだった。

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連休に

http://www.youtube.com/watch?v=I_HGlN7PLhg&feature=fvst

今年は23日から25日までが祝日・土日と続いているので、月-金勤務の方にとっては連休のクリスマスになります。

せっかくのクリスマス、お休みを利用してクリスマス行事に参加するのも魅力を感じます。
とはいえ、キリスト教徒でなければクリスマスを祝う義務もないので、他のことに使うのもいいですね。

仕事によってはお休みになりませんから、サービス業などはむしろ大変かもしれません。
お客さんも多い時期でしょうし――

これから年末年始に向かっていく直前のひととき、ひといきつけるといいですね。

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冬の夕暮れ

冬の夕暮れ


こんなに燃えて、こんなに美しくて、
こんなに輝いているこの夕日。

これは終わりなのか、始まりなのか。

今日が終わる、今年が終わる。
世界さえも終わってしまうのかもしれない。

明日への時間が始まる、春への時が始まる。
終わった世界は再生するのかもしれない。

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竜の玉

冬にもふさふさと細い葉をこんもり茂らせている植物。
葉の奥には、まんまるな青い実が2つ3つかたまってついている――

この植物を「竜の髭」と言い、この実を「竜の玉」と言うとは、今まで知りませんでした。
これは実家の庭の隅にいくつもあったのに。

「竜の玉」と言われると、なんだか特別な植物のようで、なるほど写真などを見ると琉璃色の小さな玉は綺麗かもしれません。

でも子供の頃に何度見ても、全くそんな感慨は抱きませんでした。
日陰でも丈夫に生きていくので、いつでも庭の目立たないところや隅のところにあったし、主役の扱いでもありませんでした。
実の独特な青い色を見ても、特に美しいという思いはありませんでした。
見慣れてもいたし、葉に隠れてもいたし、透明感のない琉璃色だったからです。

「竜の玉」という名前を知って、もう一度冬に実がなっているところを見たいと思いましたが、今では実家にはありません。
数年前に庭は作り変えてしまったのです。

見られないと思うと、急に貴重な気がしてきます。

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冬の町

冬の町


ああ、もうこんなに冬。

大気もこんなに澄んで、遠い山も見えるようになってきた。

ああ、もう町は冬。

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心の変化

いつか読みたいと思いながら、買ったままになっている本が何冊もあります。

でもそんなにいつまでも寝かせておいても、いったいいつになったら読めるやら分からない、と思い、できれば読もうと思っています。
退職してからまとめて読む気なのか、いったいそれまでわたしは元気にしていられるのだろうか、とふと思ったのです。

なかなか忙しくて読む心のゆとりを見つけられませんでしたが、ある連休に「これとこれを読もう」と取り出しておきました。

ですが、読み始めて衝撃を受けました。

そのジャンルの本は、10年前はとても楽しく読めたものでした。
でも今は、あのときほど楽しくなかったのです。

もっと忙しくない、心にゆとりのあるときでないと駄目ということだったのでしょうか。
それなら退職後に、晴耕雨読の生活でもしながら読んだら楽しいかもしれません。
それとも、若いからこそ楽しいと思えたのでしょうか。
先が短くなってくると楽しめないものなら、退職後にはさらに楽しめないものになっているでしょう。

なかなかできないことなのですが、「読みたい」と思う旬のうちに読むのが一番です。

暇になったら、生活にゆとりができたら、と考えることはよくあります。
でも実際にそのときが来たら、楽しめないかもしれません。
「いつか旅行したい」と思っていても、年をとってから行こうとすると体が思うように動かず楽しくない、という戒めを聞くことがあります。
でも本は、老眼鏡をかけるくらいの不便で済むと思っていました。
読みたくなくなるというのは、あまり実感していなかったのです。

何事も、長すぎる春はよくないものなのだと知りました。

旅行は先立つものと時間がないと行けませんが、せめて本を読むくらいのことはしていきたいと痛感しました。

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冬を前に

冬を前に


さあ、もう冬がやって来る。
いや、もう入り込んでいる。

わかっている、感じている。
でも、あわてることはない。

時が来ればきちんと葉を落とす、
時が来れば眠りに入る。

木々は自分の肌が感じる冬を正確に知っている。
木々は自分の中に流れる時間を正確に合わせる。

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忘年会

忘年会って何回くらいやるもの?

忘年会の数や内容で、ある程度その人の社会的立ち位置が分かると思う。

そう思うようになったのは、ある職場で忙しい部署から移ってきた人を知ったとき。
考えてみれば当たり前のことだったけれど、それまで特に考えたことはなかった。

営業なんかをやっている人は、忘年会の数だって多い。
都合をつけられなくて、優先順位を決めて断っていることだってあるだろう。

12月の声を聞いたときから、忘年会シーズンが始まるって気合いを入れていたに違いない。

でもそういう仕事から離れれば、公的な忘年会の数は減る。
個人的なつきあいにまで発展していた顧客とは、今でも忘年会をするかもしれないけれど、全体の数は減るに違いない。

手帳には忘年会の予定がぎっしり書いてあるけれど、もしかしたらその3分の1はプライベートに近いものかも。
いや、半分くらい個人的なものかも。

わたしの忘年会は全くもって、大したことない。
前の職場の友人と二人で行くかもしれない、とか。
前に通っていた職業訓練仲間と数人で集まるかもしれない、とか。
ある職場の小さなレベルの忘年会に、もしかしたら行くかもしれない、とか。
別の職場の部署忘年会があるかもしれない、とか。
全部合わせたって、数も多くないし、どれもかなりプライベートに近い。
職場の忘年会だって、「所属している部署」だったりするわけで、取引先と何かするわけでもない。

別に忘年会をたくさんしたいわけでもなく、夜は出歩きたくないことが多いので、少なくても気にならない。
「忘年会」というのは、なかなか会わない人と会うきっかけとしてはいいな、くらいのもの。

でも忙しい部署から移ってきた自分よりずっと上の役職の人を見ていると、気になる人もいるかもしれないな、と思う。

その人は気にしているようには見えないけれど、勝手な憶測でそう思ってしまう。
わたしのような下っ端にそんな斟酌をされたくないだろうけれど、人は常にいろいろ斟酌されてしまうものなのだ。

公的な行かざるを得ない忘年会は、わたしにとっては「やれやれ」なものだけど、たくさんあった方が嬉しいってこともある。
もし自分がひとつの職場の正社員で、会社内での地位や社会での立場を意識して生きていたら、ときには考えると思う。

――わたしの忘年会の数って、この年でこの職で、このくらいでいいの? って。

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