夢の海

――すべてうつろうその果てに――

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木藤のすだれ

木藤のすだれ


木藤のすだれをくぐって、
春の公園を歩く。

春の大気にゆらいで、
ビルとドーム屋根が見える。

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スタートライン

 身内の病気が発覚し、検査から治療が軌道に乗るまでの間に、いろいろなことにつきあった。
 最初のショックを乗り越えた頃、つくづく考えた。がんは予測できない。
 ある日突然糖尿病になることはない。健康診断を受けていると、コレステロールが高いとか、血糖値に問題があるとか、何かがあって「このままでは病気になりますよ」と言われる。次のときはもう少し具体的に治療を指示される。
 けれどもがんは、「この細胞はがんになりかけていますから、がんになる前にこうしましょう」と言われることはない。見つかったときはもうがん患者だ。
 しかし今は判明したからといって、すぐに絶望する必要はない。
 がん医療は進んでいる。がんを予防し、撲滅することには成功していないけれど、「なったら一足飛びに死」ということはなくなった。
 身の回りを見ても、ブラウン管や雑誌記事の中にも、がんが発覚しながらまだ永らえている人がいる。再発のリスクは残ったとしても、完治と言っていい人もいる。
 ショックがないわけではない。もし「進行している」と言われれば、なおさらだ。
 でも希望がないわけではない。
 そんなふうに恐怖の度合いが減ったけれど、がんが死と向き合わされる病気であることに変わりはない。
 「がんです」と言われるた時点で、または「かなり進行しています」と言われた時点で、当人や家族が受けるショックは死の予感からだ。そして、それをどうやって受け入れていいか分からない。
 覚悟を決めなければいけないのかとも思う。でも覚悟を決めることは希望を放棄することではないかとも思う。家族として、それを受け入れることは逃げではないかと思う。その恐怖も、どうなるか分からないと不安がる気持ちも、当人と共にするべきではないかと思う。
 昔は、いかにして死の告知を受け入れるかが問題だった。でも今は医療も進んだ。死の告知に至るまでには、もっと段階がある。治療して、駄目で、治療して、駄目で、または治って、でも転移していて、治療して――。
 先は長い。当人にも嫌でも覚悟が訪れるときまで、まだいくつもステップがある。
 ・・・・・・時間のほうはどれだけあるか分からないが。
 がん告知は、即、死の宣告に結び付くわけではなくなった。今やスタートライン。もしかしたら完治するかもしれないが、壮絶な治療が待っているかもしれないスタートライン。完治した後も、定期的な診断を受けたり、治療で受けた後遺症に悩んだりする生活のスタートライン。
 スタートにすぎない。

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丸の内の春到来

丸の内の春到来


丸の内――東京のビジネスの中枢。

丸の内にも春が来る。
密かに花も咲き始める。

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ホロヴィッツ

 ピアニストの演奏について特集している番組を見た。詳しいことを知っているわけではないけれど、あえて調べずに、番組で見たことだけ考えてみる。
 ウラディーミル・ホロヴィッツ。彼は素晴らしかった。特にオクターブの演奏がすごい。ピアニストとして彼にかなう者は、昔も今もいないのではないか。
 しかし彼は12年間も表舞台から姿を消したことがある。「ピアノという完全な楽器とずっと一人で向き合う孤独な仕事だ。そういうプレッシャーに耐えられなかったのかもしれない」と語っていた人もいた。
 彼の復帰コンサートのチケットは即完売したが、集まった人々は「本当に彼は現れるのだろうか」と懸念していた。しかし、彼は現れた。自分のコンサートのための渋滞に巻き込まれ遅れたが、笑顔で到着。「彼が舞台に出ると、あまりの拍手にたじろぐほどだった。しかし彼がピアノの前に腰かけると、拍手よりも大きな静寂が、ピンと張り詰めた」と当時を知る人が語っていた。
 ホロヴィッツのそのときの演奏が流れると、わたしのような素人でもその素晴らしさが分かった。高いテクニックを駆使していると感じられる上に、早い。この速さでこのように手や指を動かせるものだろうか。
 「競走馬のように手のすべての筋肉が動く」と解説されていたが、見ていると本当にそんなふうだった。
 長い指と柔軟で強靭な筋肉のため、オクターブの演奏も正確にキーの腹を押している。たとえばわたしのずんぐりむっくりの指では、いっぱいに広げても、8つも離れた2つのキーを同時に押すのはギリギリだ。
 ずっと以前、「ホロヴィッツは演奏は素晴らしいが人格的には問題がある」という話を聞いたことがある。芸術家は作品がすべてとも言えるから、演奏が素晴らしければ人柄はどうでもいいと思った。当時からホロヴィッツの演奏は好きだったのだ。
 こうして映像で手の動きまで見てみると、技術や適不適が大切だと分かる。
 芸術は特にそうだけれど、「技術だけじゃダメ、心が大事」と言われることがある。でも心を表現するにも技術がいる。50%の技術では50%しか表現できない。
 もっと考えれば、心がこもった平凡なピアニストの演奏と、心なしに弾いたホロヴィッツの演奏では、ホロヴィッツのほうが素晴らしいのではないか。いずれにしても曲そのものは素晴らしいのだから。
 そう考えてしまうほど、ホロヴィッツの演奏は見事だった。心が大事だとしても、とにかくその大事なものを100%以上に表現しているように思えた。
 あまり絶賛していると、「今後はコンピュータで計算してホロヴィッツの演奏を作りだせる時代だ」と言われてしまい、反論できなくなると業腹なので、ここでやめる。

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空に渡る枝

空に渡る枝


空に渡る枝の橋。

妖精が橋を歩いた後に咲く小さな花。

早春の花はそんなものが多い。

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A・ルービンシュタイン

 ピアニストの演奏について特集している番組を見た。詳しいことを知っているわけではないけれど、あえて調べずに、番組で見たことだけ考えてみる。
 A・ルービンシュタインは技術のしっかりした人だった。彼は才能があり、難なく演奏できた。後年はアルコールをよく飲むようになり、相当量飲んではいたが、コンサートは盛況だった。
 あるピアニストが語る。「彼の悲劇は、練習しなくても弾けたことだ。苦労せずにできるというのは困ったことでもある。やる気につながらないからだ」正確な言葉は忘れてしまったけれど、ポイントは「彼は難しいテクニックも難なくこなせたため、逆に頑張る意味がなくなり、結局飲酒など好ましくない習慣に染まることになった」ということだ。
 聞いていて、ボクシングのことを思い出した。パンチの強い選手は、少ないパンチで相手を倒せる。軽いパンチのボクサーが15発命中させてようやく敵が倒れるところを、強いパンチなら5発でKOになる。相手からたくさんパンチをもらう前に相手が倒れてしまうので、防御を練習することがない。だから防御が苦手。ランキングが下のうちは相手も弱いからそれでいいが、上になるにつれて戦う相手も強くなるので困る。
 少し違うかもしれないけど、連想が働くには充分な類似。
 努力しなくてもできる人は、努力することを覚えられないままになることがある。
 ルービンシュタインは努力しなくても一流ピアニストのテクニックを覚えられたのだから、努力することを覚える必要はなかったろうが、平凡な言葉を使えば「やりがい」を見つけられなくなったわけだ。
 さらにはアルコールを覚えてしまったのは、健康やピアノ以外の生活を考えれば、あまりいいことではなかったかもしれない。
 わたしのような凡人は、才能があることはそれだけで幸せなことに思えるけれど、そうとも言い切れない。演奏前にかなりお酒を飲んでいたと思われるにも関わらず、見事に弾ききるルービンシュタインの映像を見ながら、「才能があるがゆえに」ということが本当にあるのだと実感した。
 しかし演奏を聴き終わった後、思った。
 わたしは「才能がなくてよかった」と思えるわけではない。特に何かに秀でているということはないけれど、だからといって努力も覚えなかった。
 どちらか一方、必ず手に入るわけではない。努力だって才能と同じくらい、なかなか手に入れるのは難しいものだ。わたしにとっては。
 だからやっぱり、才能はそれだけで素晴らしい価値があると思う。才能があるものなら嬉しいことだと思う。

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春の予感

春の予感


春はパステルカラーの色合いが盛大に撒き散らされ、
パステルカラーのクライマックスを迎える。

春の予感は濃い色合いで個々の存在を強調し、
強い芳香で人の注意を喚起する。

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ペンデレツキ

 ピアニストの演奏について特集している番組を見た。詳しいことを知っているわけではないけれど、あえて調べずに、番組で見たことだけ考えてみる。
 ペンデレツキはポーランド生まれ。技術は未熟で、彼が学校を卒業したとき、ソリストとしての活躍は期待されていなかった。しかし彼は大変な人気者となり、コンサートは満員御礼、あまりの人気に2年ほどポーランドの首相も務めた。
 当時を知る人が語る。「ペンデレツキの演奏は未熟だったが、演奏会では皆が魅了された」「彼の演奏はよくないが、人柄が素晴らしかった」
 彼の演奏は批評家から低俗と評されることもあったが、サン=サーンスは絶賛するなど、評価が別れた。
 当時のヨーロッパでは、ロシアや東欧のピアニストが人気を博すことが多く、赤毛のハンサムだった青年時代のペンデレツキは女性に人気だったそうだ。
 番組ではそれから、彼の演奏が少し流れたが、音源が古いためクリアに聞こえない。だから正確に判断できたかどうか分からない。もともと判断できる観賞力もない。
 ただ、その後に聴いたホロヴィッツの演奏と比べてしまうと、確かにそのレベルではないように思えた。とはいえホロヴィッツは別格だそうだし、自分が演奏会でペンデレツキの演奏を聞いても特に気にならなかったろうと思う。未熟だって言ったって「ピアニスト」と名乗れるくらいの演奏なのだから。
 ペンデレツキの説明を聞いていて、思ったことがある。
 今ではデジタルでキャラクターも作れる時代。いずれはそういったデジタル俳優たちが映画やドラマに登場し、人間はいなくなる時だが来る。ピアニストだって作れる。過去の演奏をプログラムに入れれば、演奏法を解析して、亡くなったピアニストに新しい曲を演奏させることもできる時代が来る。来るに違いない。そう言う人もいる。
 最近はCDやDVDも多く、わたしのような通でない人間はそれで充分だ。お金と時間を使って生演奏を聴く欲求は減った。デジタルで聴くのなら、そのやがて来る(かもしれない)時代は素晴らしいとも言える。
 でもペンデレツキは現れない。少なくとも、好んで彼のコンサートに行っていた人たちは、その時間を楽しみ、喜び、幸せを味わった。未熟だろうが何だろうが、コンサートを楽しめたらならいい。そう考えることもできる。
 でももうそんなことは起こらなくなる。それも残念な気がする。
 しかし「良くない演奏を聞いて満足するなどするべきではない」という意見もあるかもしれない。
 まとまることではないから、流れに任せることしかできないのかもしれない。

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