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すみれは春を告げる花。春の「兆し」の頃ではなく、いよいよ暖かくなってくるとあちこちに紫色が見られるようになる。
すみれの紫はとても美しくて、群青色とも紫とも思える色合いを見ていると、この花が「ヴァイオレット」と呼ばれるのは当然だと思える。
もっと薄青いすみれの花も見かけるけれど、わたしがイメージするのはやはり、濃いめの紫の花弁。
この色のすみれの中に、ニオイスレミ、セイヨウスミレがある。
明るい紫の花弁に、ハーブのような産毛のある葉のニオイスミレ。英名はスイートヴァイオレット。
「赤毛のアン」の作者、モンゴメリーの作品でよく見かける。
モンゴメリーは、「赤毛のアン」シリーズ以外の作品でもプリンスエドワード島やカナダの自然豊かな土地をよく舞台にしている。北の地方では、春や秋の美しさが鮮烈だ。人間ドラマも面白いけれど、この風土描写もモンゴメリーの作品の大きな魅力になっている。
春になると、アンや他の女性の登場人物たちや、時には男性が、「ニオイスミレの花束」をプレゼントする。愛情を感じている相手に――。
恋する人のこともあるけれど、異性とは限らない。愛する家族に散歩の折に摘んで帰ったり、親しい知り合いや好意を抱いている知り合いに送ったりする。
「ニオイスミレの花束を」という文字を読んだだけで、甘い香りが感じられるように思える。本の中に春を感じる。それが「スイートヴァイオレット」だと知れば、それはそれで春を感じる。西洋らしい春を感じる。
実際にニオイスミレの香りを知っているわけではないのに。
すみれは地面に近いところで咲いているし、一面すみれという森を歩いたりしたことはないので、匂いを認識したことはない。花束にするほど摘んだこともない。
もし誰にも見られない場所でニオイスミレを見ることができるなら、地面に寝転がって匂いをかいでみたいものだ。
それともやはり、摘んで帰ろうか・・・・・・。
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地上にも、小さな葉の小さな葉陰ができる。
その葉陰に、小さな花が咲くこともある。
「笑顔で挨拶」とよく言う。
笑顔で挨拶することが人間関係をスムーズにする。人によい印象を与える。社会人として、挨拶は基本の基本である。
わたしが通うある職場では、受付に警備員さんがいる。朝、たくさんの人が「おはようございます」と挨拶しながらそこを通る。そういうのどかな雰囲気のある職場だし、警備員さんもぎすぎすしていないのだ。
たくさんの人に挨拶されるから、警備員さんもすべての人は覚えていないかもしれない。 わたしなどは毎日通う人間ではないから、余計だ。
でも同じ職掌の他の人より、警備員さんに認識されているようだ。
どうしてだろう。
一歩踏み込んで考えてみる。
受付に座っている警備員さんに「おはようございます」と言い、お辞儀をする。でもそのとき、相手の顔を見ていないこともある。相手を特に認識せず「おはようございまーす!」「お疲れさまでーす!」と挨拶することもある。
わたしはお辞儀をする前に、相手の顔を見る。自分が挨拶している人が「通りすがりの警備員さん」ではなく、「ああ、この人か」と認識して挨拶する。名前を知らないまでも顔は認識する。
もう少し考えてみる。
「挨拶」はしていても「笑顔で挨拶」はしていない人も多い。または「ほほえみ」くらいの笑顔だとか。
わたしの表情は、カタコト手話を使うようになってから少し豊かになった。大げさになったと言い換えることもできる。「笑顔で挨拶」というときも、笑顔は大げさになっている。
総合してみると――
極端な言い方をすれば、顔を認識することと大げさな笑顔をすることで、「ああ、あなただったんですか。会えて嬉しいです」というレベルの「おはようございます」になるのだと思う。
もしそれが、会うたび毎回だったら、同じ回数会っていても「ほほえみながら挨拶」の人よりも強く認識されるだろう。
そういう理屈があるのかもしれないな、と思う。
しかしこうも考えられる。わたしはよくぎりぎりに着くので、もう人のいない静かなロビーに一人で「おはようございます」と入っていくことが多い。だから認識されやすいのではないか。
こちらも有力な説なので、結局ただそれだけのことなのかもしれない。

場所を選ばず大地を春の色で埋める。
はかない風に揺れる花びらで埋める。
花大根がじゅうたんになる。

今はまだ、少し花を咲かせ始めただけ。
でもあっという間に真っ白になる。

すっかり明るくなった日差しの下では、
雪の白がすがすがしい。
「でも私は春に属する者なのよ」
花弁に緑の印をつけて、
スノードロップは主張する。