夢の海

――すべてうつろうその果てに――

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公園にて

ヤマアジサイ


夏休みが始まるね。

夏休みが始まったね。

公園も忙しくなる――

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夢占

 夢を見る。
 夢占なんて信じられないけど、ときどき考えてしまうことがある。これは何を意味しているのだろう? 自分の未熟な部分の現れなのかも。もしくは醜悪な部分の――。

 ある友達に手紙の返事を書かなきゃ、とずっと思っていた。でも結局電話をしてしまったので、書きかけた返事は捨てた。
 身内が病院に通うことになった。心配だし、そのことで自分も負担がいろいろとある。
 そして夢を見た。
 わたしは友人から手紙をもらう。だいぶ遅れてしまった返事を送ったら、すぐにその返事が届いたのだ。
 わたしは心の中で思っている。「わたしは遅れたのに、彼女はすぐ返事をくれた。申し訳ないな。今度はすぐに返事を書かなきゃいけないな。でも自分に書けるかな。また遅くなってしまうのじゃないだろうか。そうすると、彼女がすぐに返事をくれたことは、逆にプレッシャーになって辛いことだな」
 そんなことを考えながら封筒の宛名面を見ていると、「家族 病気」というシールが貼ってある。彼女の家族が病気になったのだろうか。わたしと同じだな。
 これは、たまたまふたつのことがごちゃまぜになっただけだろうか。
 それともわたしの中に、「自分だけじゃなくて、皆がそうなればいいのに。なんで自分だけこんなふうに悩まなきゃならないの?」という思いがあるからだろうか?
 まさかそんなこともないと思うし、本気でそう思っていたら深読みのしすぎだろう。
 でも内向的になっているときは、いろいろと気を回して考えすぎてしまうものだ。自分の醜い面の現れかもしれないと思うと、なんだか落ち着かない。
 元気なときは、夢を見ても気にしない。
 元気ではないまでも、憂鬱とまでいかないときは、夢について考え過ぎてしまっても、「もう考えない」と決めることができる。そしてそれを守ることもできる。
 だから考えるのは忘れよう。だって、真実のところは、たぶん何の関連もないのだ・・・・・・。

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シェスタ

シェスタ


こんなに暑くては、昼寝のひとつもしたくなる。

こんなに日差しが強くては、日陰に避難したくなる。

シェスタでもしてみたくなる。

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年をとった

「年をとったんだなあ、って実感しました」
 そう言うと、いつも言われる言葉。「そんなことないわよ」「何言ってるのよ。その年で。まだ若いわよ」「年だなんて思ったらダメよ」
 そう。心構えとしてはそうなのだろうと思う。でも認めなきゃならないことっていうのはあって、冷静に「自分がもう若くないこと」を受け止めるべきときもあるのだ。
 「年をとった」と言うことは、ネガティブな響きがあるため、ひと言言っただけで大抵は反対意見が述べられる。
 だから言ってみる。
「そうなんですけど、なんていうか、もう無理がきかないっていうか。疲れたらそれが体に出ちゃうんですよね。20代と同じわけにはいかないんだってことを認めて、自己管理していかなきゃいけない年になったんだなって思ったんですよ」
 ここまで言うと、今度は大抵の人が賛成してくれる。
 「それはそうよ」「若い頃と同じにはいかないわよ」「無理はね。注意しなきゃね」
 本当に、もう年だ。
 たとえば自分のことや家族のこと、身内のことで何かがあって、睡眠が減るとか疲労がたまるとか食事が不規則になるとか、またはその他のいろんなこととか、疲れることがあったとする。そういうとき、若い頃は「頑張らなきゃ」「耐えなきゃ」と思って頑張れば、体はその頑張りについてきた。
 でも今はもう、ついてこない。そのひずみが、不調となって体に現れる。
 風邪をひいた、なんとなく具合が悪くなった、いつまでも疲労感が抜けない――。もっと違うことも起きる。ものもらいが今までになくこじれてしまったり、急に片腕がだるくなって動かしにくかったり。どうしてこんな症状が?と思うような症状が出る。
 だから疲れたなと思ったら、無理して頑張らずに早い段階で休んで疲れをとる。やらなきゃいけないと思っても、無理なときは諦める。そういうふうにしていかなきゃいけない。
 こういう説明をすると、大抵はうなずいてもらえる。年上だったら、「まだいいわよ、50代になったら、もっとよ」と、逆に脅されたりする。さっきまでは「何言ってるのよ!」と言っていたのに。
 でも説明のとき、注意すべきことがある。
 もし40代前半であるのなら、「30代のときは頑張れたけど、今はダメ」と言ってはいけない。「20代までは」と言うべき。50代前半なら、「30代までは」と言う。
 ここでポジティブさをアピールしておくのだ。そうでないとネガティブ思考と受け取られて、ポジティブ教に改宗させようと頑張る人たちに猛反対されるから。

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誰もいない庭園で

誰もいない庭園で


誰もいない庭園で、
せっせと動いているものがいる。

気づかないことが多いけれど。

どんどん伸び、葉を茂らせ、枝を伸ばそうとする木々。
せっせと巣を作り、大きくしようと精を出す蜘蛛たち。
土の下や木の中で成虫になる日を待つ虫たち。
どこか遠くからずっとエサをを引っ張ってきたありたち。

ひと月後に来たら、蜘蛛の巣だらけになってるだろう。

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空と雲と風のこと

 空について、自分なりの考えを持っている人は多いのじゃないだろうか。
 「天高く」と言ったりするし、「空が高くなってきたからもう秋ね」「冬は富士山がよく見える」と話したりする。
 わたしにとっての春の空は、花曇りの空。晴天の日でもどこかぼんやりしていて、すっきりした青ではない。そんな空。
 夏の空はギラギラした光に満ちていて、空を見るまでもなく、自分の目の前の大気を見るだけでくらくらする。いつでも日傘をさしているので、夏の空とは直視したことのない空という意味になっている。
 秋の空は高い。急に空が遠くなる。そうすると、秋なのだと分かる。
 冬の空は美しい。青がかぶるほどに青い。実は夏ほどもギラギラしている。光に満ちている。
 空を見たら、当然雲も見ているのに、季節の雲の形は分からない。夏には入道雲、秋にはいわし雲が見られるということくらいで、春と冬は思いつかない。
 どの季節であっても、どの雲であっても、青い空に真っ白な雲が配置されているのは美しい。
 空を厚く覆っておひさまが見えないときも、厚い雲の切れ間から、光のカーテンのように日光が降り注いでいることがある。夕陽のときは雲が素晴らしいオレンジ色に染まることがある。
 それほどに効果的な存在なのに、季節ごとの雲の変化は把握していない。
 雲を連れてくるのも、背中を押して吹き飛ばすのも、風のしわざ。
 風は目に見えない。けれど音は聞こえる。
 春一番の吹き荒れる音、台風の暴風が吹きすさぶ音、強い風が覆いにしているビニールシートをガサガサいわせる音、換気孔からひゅうひゅうすり抜ける音、歩いているときごうごうと耳元で聞こえる音。
 風の音は、春の強風、台風の暴風、そよぐ音、凍てつく音、季節の移り変わりを表している。
 空と雲と風は、いつも同じように青く、白く、髪をなぶるけれど、季節と共に変わってゆく。
 三つはどれも上を見上げたとき見えるもの。同じ領域を居場所としている。互いに手をとりあうでもなく、蹴散らすでもなく。
 そしていつも、見ている者が分かろうが分かるまいがおかまいなしに、季節を映している。

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ヤマアジサイ

ヤマアジサイ


形は地味に見えるけれど、
色はあでやか、ヤマアジサイ。

紅をひいた唇のよう。

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春と夏と秋と冬のこと

 四季も40回以上繰り返してきた。何も考えずにその日その日を受け入れていたのは、ほんの小さな子供の頃だけ。知恵がついてくれば「春はこう」「夏はこう」という固定概念も生まれるし、自分なりの受け入れ方もできてくる。
 学校と名のつくものに通っていた頃は、いつでも春は嬉しくない季節だった。変化を嫌うのに、新学年という大きな変化に否応なく直面させられるからだ。
 働き始めて10年は、春が一番の繁忙期という仕事だったので、春を味わうとか楽しむということはできなかった。
 でももしかしたら、忙しさの中で時折感じる春こそ、味わい深いものだったかもしれない。
 「学校」の時代は、夏といえば夏休み。
 今はもう夏休みが1ヶ月も2ヶ月もあるわけではないけれど、8月は「夏休みだ」という気持ちが強い。子供たちと、子供のいるお母さんたちに引きずられるのだと思う。
 8月が終わっても、暑さはまだまだ続くのに、8月が終わると「夏が終わった」と思う。後は残暑でしかない。それは「夏」が終わったというより「夏休み」が終わったということなのだと思う。自分にはないくせに。
 秋はすすきが実ったり、紅葉が始まった李するとしみじみ実感される。
 その時期は結構遅いので、秋は短く感じられる。9月は夏の残り香みたいに感じられ、秋という印象が薄いからだ。10月と11月。秋はまるで2ヶ月しかないかのようだ。
 12月になると、まだ紅葉の木々は葉を落としきっていないのに、「12月」という響きだけで「冬」だと感じる。
 わたしにとっての冬は12月と、1月2月に分けられる。12月は暗いイメージ、宴会シーズンだからだろうか、日が短くなるからだろうか、夜のイメージなのだ。1月2月は朝の青空のイメージがある。冬の青空は美しい。
 毎年同じように来るわけではなくて、年によって違いがあるのに、わたしが予期する季節は定型的。「今年はいつもより○○が遅いなぁ」「今年はいつもより××が早い気がする」と何かしら毎年感じているのに、いつまでも同じ定型を期待しているのだ。
 もうこれだけ何十回と迎えていれば、そんな自分なりの典型的春夏秋冬もできるだろう。
 そして老いていくにつれて、違いを受け入れられなくなっていくだろう。
 「今年はなんだか・・・・・・」というのを繰り返していくのだろう。

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白のアジサイ

白のアジサイ


白のアジサイ


咲きたての白のアジサイは、
まだ汚れひとつなくて、
しみひとつなくて、

うっすらと緑が中心に残ったのもいて、
初々しくて、

とても美しい――

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