夢の海

――すべてうつろうその果てに――

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状況の友

 状況が同じ人はやはり話しやすい。
 たとえば職場が同じで、同じ上司に悩まされているなら、当然話も通じるだろう。「うちの上司、これこれこう言ってイライラした」と話したとき、無関係な友人は「でもそれはあなたの捉え方の問題もあるんじゃない?」なんて言うかもしれない。「これこれこう言って」の前にどのような日常があるのか、その上司はいつもどのような言い方で部下に話しているのか、などが分かっていると、「それはムカつくね~」「あの人なら言いそうだね~」と言ってもらえる。
 夫の実家や自分の実家、そして自分たち自身に不調が続き、バタバタしていたとき。自分たちもそういう年齢になったのだとしみじみ感じていた。周囲の者が病気や老いで悩まされる年になった。そのために自分にも負担がかかってきたとき、無理をした分体調に現れるようになった。
 誕生日が10日違いの知り合いが、同じようなことを同じようなときに言い始めた。
 父親の病院に付き添わなきゃならなくなって――母親が具合が悪くなって――夫の実家に行かなきゃならなくなって――疲れちゃってるのか、最近体調が悪いんですよ、だから今度の飲み会は行けません――。
 やっぱり誕生日がほとんど変わらないので、同じような頃に周りに不調が出始めるのだなぁ。そしてやっぱり誕生日がほとんど変わらないので、若いつもりでいても年をとっていて、無理がきかなくなっているのだなぁ。
 今までも好意を持っていたけれど、「分かる!分かる!!」とやけに共感してしまう。
 年はいくつか違うし、他にもいろんなことが違うけれど、同じ頃、きょうだいが同じ病気にかかった友人がいる。わたしのきょうだいも、彼女のきょうだいも、同じ病気。
 「実はきょうだいがこういう病気で、そのことを他の友人に言えないでいる」と言ったら、「分かるよ。私のきょうだいもそう言われて、今度検査をすることになってるんだ」
 一、二週間の誤差でいくつもの検査を受け、治療が始まった。同じ名前がついても部位やタイプで全然違う治療になるけれど、彼女には何でも話せるような気がする。共感しあっていると感じる。
 時が経って、たとえばどちらかは回復したのに、どちらかは悪化したというような、悲しい状況の違いが生じたら、今感じている共感もなくなるのだろうけれど。
 わたしのきょうだいと同じ年で、同じことを目標にしていて、ついに開花し始めた友人がいる。間接的だけれど、これは状況が逆だ。彼女と話すのは辛くなり、連絡を控えるよういなってしまった。
 状況が同じということで、より近く感じることがある。
 逆に、互いの置かれている「状況」のそりが合わないために疎遠になってしまうこともある。

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毒の花

毒の花


子供の頃は言い合ったものだ。

「彼岸花は毒があるから触っちゃいけない」って。

親に聞いた、友達に聞いた、先生に聞いた、
みんないろいろだったけど、
とにかく毒なのだ。

触っただけで大変なことになる――そう思ってた。

秋になると畦によく咲いていて、
この美しさが毒々しい妖婦の美しさに見えて、
余計に怖かった。

目で見るのも毒のように感じた。

この花を美しいと思って見るたびに思い出す。
美を感じる感覚にも枷をつけることができる、ということ。
心にはなんなく枷をかけられる、ということ。

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年下の友

 もう辞めてしまった同じ職場の女の子。誕生月が同じで、わたしよりもちょうど10歳年下だ。「妹のよう」と言うには、ちょっと若い。
 出産を機に会社を辞めた彼女。一年半ぶりに会うことになった。
 彼女の家の最寄り駅まで行くので、お子さん連れで軽く食事でもしましょう、と子供がいても入れそうな店を探した。
 当日の朝になって携帯にメールが入っていることに気づいた。「息子が昨夜から熱を出してしまい、これから病院に行くけれど、状況次第で私だけ行くか、リスケジュールになります。すみません」
 「私はどちらでも構わないから、気がねしないで決めてね」と返事を返してから、ふと思った。
 礼儀正しい彼女は、ずっと年上のわたしにはいつも気を遣ってくれた。「こんな状況じゃ取りやめにしたいな」と思っても言えないのかもしれない。「私だけで行くか、または」と言っているけれど、本当は中止したいかもしれない。でも言えないのかもしれない。
 彼女より10歳も大人のわたしとしては、「まあ大変! じゃあ日を改めましょう!」と言ってあげるのがスマートだったかもしれない。
 今からでもメールしたほうがいいだろうか。でも何度も立て続けにメールが来たら、それはそれで気を遣って「大丈夫です! 行きます!」と言わせることになったりしないだろうか?
 結局、彼女は息子さんを近くに住む両親に預けてやってきた。「処方されたお薬を飲んで眠っているから大丈夫」と言って。
 彼女も楽しそうに見えたし、たまにはそういう外出も良かったかもしれない、と思う一方で、ずっと心配しながらも「もう帰ります」って言い出せなかったのではとも思う。いやいや、もしそうならさすがに彼女も「心配なので早く帰ります」と言うはずだ。でも礼儀正しいから、楽しそうに笑顔でいてくれただけなのかもしれない。
 わたしは考えすぎるのでグルグルグルグル考えてしまう。
 年下の友人というのはなかなか大変なのである。特に、彼女のようなできた女性ならなおのこと、無理をしてくれているのでは、と心配になってしまうのだ。
 そもそも、彼女はわたしなどに会いたかっただろうか? 流行の話にも子育ての話にもついていけないわたしなどに。断れなかっただけかもしれない。
 なんて、心配になってしまうのだ。

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路傍の草にも


草の間にも、明らかな秋が。

秋は赤いからすぐに分かる。

まず最初に目につく秋の赤。
この赤の後に、いろいろな赤が来る。

赤い秋のはしりがここに。

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日常の友

 今は部署が別になってしまったけれど、かつて同じ部署だったとき仲良くしてもらった友人がいる。通勤に使う電車が同じなので、ときどき一緒になることがある。
 たまに電車が一緒になると、久しぶりに心置きなくおしゃべりをする。職場の事情も分かっているので分かりが早いし、相手の事情を知っているので家族の話などもいちいち説明しなくても分かる。
 離れている友人とは、会話をするときに説明が必要になることが多い。「今の職場ではこれこれこうなっていてね」「この間、子供がね、――あ、子供は今こういう習い事をしているんだけどね」
 職場で頻繁に会う友人は、会話の機会が多い。仕事の話はもちろん、それ以外のことも、説明しなくても通じる。だから楽なのである。
 説明しなくても話が通じる楽な友人というのは有難い。結局、一番親しくなっているかもしれない、と思っていた。
 夫の実家で病人が出たときも、「えー、それは大変だね。旦那さん一人っ子だったよね。じゃあ、厄介だ」と、こちらが言わなくても基本設定を知っている。
 けれど、わたしの実家で病人が出たときは、話した後で少し落ち込んだ。
 それほど深く話すつもりはなかったけれど、遊びに誘われそうになったので、「今はちょっと難しい」と説明した。
 いつもの元気な口調でどんどん聞いてくる。「どうしてそんなになっちゃったの? 病院に行かなかったの?」「今どのくらい進行してるの?」「医者はどう言ってるの?」
 いつのまにか聞き出されたような気持ちになった。自分から話したのに。まだ病名告知のショックが残っているときだったので、傷を刺激されてしまったのだと思う。
 話さなければ良かった、触れられたくないところまで踏み込まれた、それは自分が悪いのだ、と思った。
 また踏み込まれるのが嫌で、なんとなく距離をとるようになった。メールをする回数が減り、社内メッセンジャーでやりとりすることも控えるようになった。
 この日常の友は、毎日行く職場のグチを言い合うのに適している友なのだ。プラス、噂話的世間話、噂話的プライベート話に適している。
 彼女だってそうで、わたしのダブルワークの職場の話は興味がない。「旦那」や「姑」の話は下世話な話的面白さがあるからお互いするけれど、プライベートなことや趣味の話はネタとして面白くなければ話し合わない。
 それはそれで悪いことではない。そういう友人も必要だ。
 ただ、「親しさ」の内容を自分で分かっている必要があるのだと反省したのだ。

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回廊

回廊


小さな山の中の木の回廊。

宮殿の中庭に通ずるみたいに、
まるで建物の柱みたいに、

まっすぐ立って回廊を作る。

きっと奥には神秘の自然が待っているはず。
玉座に座って待っているはず。

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手紙の友

 中学生のときからの付き合いの友人がいる。
 でも彼女との関係を「付き合い」と言っていいかどうか分からない。手紙しかやりとりしない友人なのだ。
 20代の頃はよく一緒に出かけたりしていた。近くに住んでいたから会いやすかった。
 でももう10年近く会っていない。たまの手紙のやりとりだけだ。文通の頻度は多くない。年に3、4回。365日で2回のときもある。
 昔の人みたいにぎっしり手紙を書くわけではないので、彼女の近況はあまり分からない。彼女もわたしの近況をそれほどは知らない。
 今どき珍しい関係である。会わなくても、ブログやSNSで近況を知ったりコメントしあったり、またはメールでやりとりしたりする友人は何人かいる。でも彼女とは「手書きの手紙」というアナログな関係。
 30代に入ってから数回会っているが、数年に一度というスローペースでしか会っていない。今は最後に会ったときから8年?9年?
 この友達と手紙をやりとりするのは、心安い。なんとなく趣味や価値観が似ていると感じるし、わたしが話したことを理解してくれているように思える。
 でも実は、何年ぶりかで会うと、少しすれ違いを実感させられるのだ。
 お互い違う人生を歩んでいるわけで、価値観も人生観も違う方向に進んでいる。まったく同じなんて人はもちろんいないけど、わたしがその後出会って仲良くしている友人たちより、どうやら彼女のほうがすれ違いが大きい気がする。
 それは当然だ。もう道が分かれて長いのだから。
 ただ、手紙しかやりとりをしないので、変わった部分に気づくところまでいかないのだ。原稿用紙で言ったら1枚か1枚半くらいの手紙や、半分くらいのハガキで分かることは限られている。
 手紙以外の付き合いもあったら、きっと今頃はあまりつきあいがなくなっていたかも。
 久しぶりに電話で1時間話したら、やっぱり永遠のすれ違いを感じた。だいたい合っているのだけれど、どこか「そういう意図じゃない」「違う受け取り方をしてほしい」と思うところがある。たぶん彼女のほうも感じている。だいたいは楽しく話せるけれど、たぶんこの「ちょっと違う」の部分は決定的で、今後もずっとすれ違うのだと思う。
 それもまたいいかな、という気もする。
 彼女とは「今度機会を作って会おうね」と話したけれど、会わずに手紙だけで心安い会話を続けてもいい。途切れがちの、ちょっと一方通行な会話を。
 または会って「やっぱりどこか違うのね」と思いながら、そういうわたしたちが手紙では続いていることを面白がってもいい。
 そんな友人がいる。

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丘


丘に木が立っているのは、
雄大な景色のミニチュアみたいで楽しい。

視野をもう少し広げれば、
もうそこは道路だけれどやっぱり楽しい。

偽りの丘かもしれないけれど、
緑の丘に緑の木が立っているのは、

やっぱり楽しい。

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