夢の海

――すべてうつろうその果てに――

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

PageTop

冬に好きなこと

 「冬」という季節で好きなことはたくさんある。
 木々の葉が落ちて、枝が見えてくること。いつもは見えなかった木のフォルムがあらわになり、ときにはその形に魅せられたりもする。木によって幹や枝の色も様々で、照るような色艶をしているものもあれば、黒々としているものもある。
 霜が降りること。特に道端の小さな葉などに霜がついている様子は美しい。雪の結晶は見ることができないけれど、霜はその美しさを楽しむことができる。
 空が青いこと。秋の空は澄んでいるけれど、冬の空は澄んでいるのを通り越して、青が強い。枯れ木の枝も、高層ビルも、濃い青の空に映える。
 空気が冷たいこと。ピリッとした気持ちになるし、頭がスッキリする気がする。
 暑くないので出かけるのが楽なこと。日よけをあれこれしなくて済むので、楽。
 編み物。いつでもできるけど、やっぱり寒くないとしたいと思わない。編み物をしていると楽しい。
 わたしは冬がそれほど厳しくない関東で育った。北欧の小説などを読んでいると、冬があまりに長いのと寒いのとで、春への待ち遠しさばかりが膨らむ様子が分かる。そういう人たちとは少し違う感覚かもしれない。
 北欧の人に言わせれば、わたしの思う冬など、冬ではないと言うかもしれない。
 だから、わたしは冬が好きだと気楽に言えるのである。
 それに今は大昔とは違う。冬だから食べ物がないとか、寒くて凍え死ぬということはない。
 虫や鳥や獣に言わせれば、冬は生命の危機、やりすごすことしか考えられないもの。家の中でぬくぬく過ごせる冬など、冬ではないかもしれない。
 わたしは現代のぬくぬくとした冬を楽しんでいる。生命の危険がないから、そのゆとりのおかげで冬を愛している。

スポンサーサイト

PageTop

期待の日

期待の日



今年、どんなことがあろうと、
来年もまた悪いとは限らない。

新しい年には、新しいことが待っているかも。

願いがかなうかも。
かないそうにないと諦めていた奇蹟も起きるかも。

どうかよい年が来ますように、
どうか悪いことは去りますように。

PageTop

秋が来たと感じること

 秋が来たと何で感じるかというと、背中がかゆくなることである。
 夏はわたしにとってとにかく「暑い」「まぶしい」でしかなくて、9月になってもそれは全然収まらない。まだまだ暑い、まだまだ残暑だと思っている。9月は全然涼しくならないんだわ、とがっかりする。
 でもそんな中でふとある日、背中がかゆいことに気づく。
 ひどくかゆいわけではないけれど、背中の下のほうがかゆい。なぜだろう。夏の間、日光でかゆみが出るから日傘を差し、手袋をし、乗り切ってきたのに、なぜ今かゆいのだろう。それもどうして背中の下半分なのだろう。
 原因に気づくと、秋が来ていることを悟る。
 秋になり、日差しの角度が傾いてきているのだ。斜めの日差しになっている。
 夏は真上から日が差すので、日傘をしているとだいたい体がすっぽり日陰に入る。照り返しもあるし、目がまぶしいほどの光なので気づかないが、そういうことなのだ。日が傾いてきたので、日傘をさしたとき上の方しか隠れなくなった。
 また、日が斜めなので、どうしてもまぶしく感じる顔や目をかばう。後ろはがらあきになって、背中に日光を受けてしまう。
 だから背中の下半分だけがかゆくなるのだ。
 ああ、秋が来たのだなぁ、と感じる。
 まだ暑くて、秋だなんて全然思えないけれど、やっぱり秋になりかけている。太陽はちゃくちゃくと傾いている。
 そして蜘蛛が巣を作り始める。いつもの通勤路に、長く柵が続いているところがある。内側はちょっとした森のように木々がある。
 女郎蜘蛛は、木々と柵に巣をかける。最初は細かった女郎蜘蛛のお腹が、秋が深まるにつれて膨らんでくる。真っ赤な筋が入る。そして冬になると消えてしまう。
 虫たちは何でもよく分かっていて、わたしが気づかない秋の気配を感じ取る。
「あ、蜘蛛が巣をかけている」
 ひとつ気づくと、少し離れたあそこにも、あそこにも。昨日まではなかったのに、ある朝数匹が一斉に巣をかける。慎重派も2,3週間もするうちには巣をかけ終えるだろう。
 最初の蜘蛛たちは、まだ暑い残暑の中、秋を予告する。
 かゆい背中をかきながら、「ああ、やっぱり秋が来てたんだ」と思う。

PageTop

夕陽の街

夕陽の街


丘の上の団地が、
夕陽に照らされて浮かび上がっている。

窓のひとつひとつに、夕陽が差し込んでいる。

そこには夕飯を作る人がいるだろう。
住民が帰るのを待つ空っぽの部屋もあるだろう。

子供が帰ってくるだろう。
夕飯の団欒が聞こえる窓も、ワインでも飲み交わす大人の窓も、
まだ明かりのつかない窓もあるだろう。

わたしの知らない人が、わたしの知らない生活を営んでいるだろう。

PageTop

夏のイメージ

 夏――言葉の響きは、なんていくつもの生命力に満ちた連想を働かせるのだろう。
 青い空。白いもくもくの雲。激しい雨と雷。
 子供の笑い声がこだまするプール。一斉に鳴く蝉。
 鮮やかな色の花。濃い緑。強い光。
 長い夏休みの子供たち。一斉に帰省する家族。長い旅行に出る人たち。
 輝く海。川遊び。キャンプ。
 夏は素晴らしいイメージで溢れている。
 夏はただ耐えて過ごそうと思うわたしでさえ、そういうイメージを思い起こして明るい気持ちになる。
 わたしの夏は日傘をさす。手袋をする。長袖を着る。
 日陰を選んで歩く。家ではカーテンを閉めている。休日の日中は出歩きたくない。
 たぶん、海に行っても、プールに行っても、水着で泳いだりしたくない。
 もう慣れたので苦痛も耐えやすいものになっているけれど、不快な季節に変わりはない。
 夏はビアガーデン! 夏はビールがおいしい!!
 でもわたしは飲まない。夏はもともと汗をかくのでかゆくなりがち。アルコールを飲むと体温が上がるので、余計にかゆくなる。
 楽しい気分になって何杯も重ねてしまうと、一週間は消えないじんましんのような症状になることがある。
 それでもイメージは楽しめる。夏はビアガーデンに行くイメージ。ビールの炭酸や苦みがおいしいイメージ。
 夏には明るいイメージ、生きてるイメージがたくさんあって、それが魅力。
 実際に夏が来ると、辛い思いもあるし、病気や高齢の身内がいると心配になる。
 でも夏はやっぱり悪くないかな、と思える。

PageTop

冬の青空に

冬の青空に


冬の青空に


冬の青空に枝を伸ばす木。

曲がりくねる木も。
まっすぐ伸びる木も。

葉が落ちてフォルムを顕す。

PageTop

春になると思うのは

 春になるといつも思うのは、思ったほど空が青くないということ。
 子供の頃は空の色なんて、それほど気にしていなかったのだと思う。青いなぁ、とか、夕日が赤いなぁ、と思っても、「秋だからこんな色に見える」「春だからこんな色なんだ」と思うことは、あまりなかったのかもしれない。
 晴れている春の空の色なんて、微妙な違いで余計に分からない。
 感じるようになったのは写真を撮り始めてしばらく経った頃だ。
 毎年毎年、春になれば桜だの雪柳だのの写真を撮り、秋になれば彼岸花や紅葉の写真を撮る。
 春、美しいと思うものが少し上のほうにあって写真を撮ろうとすると、空があまり青く写らないことに気づく。そして「そういえば前の年もそうだった気がする」と気づく。
 もう今では「あの花が(葉が)綺麗だ」とカメラを構えて空を見上げ、「空の色がどんよりしている」とがっかりすることはなくなった。予想がつくからだ。
 春の空は白っぽい、というのは、わたしにとっては近年の新しい発見だったが、常識のようだ。
 春は日差しが強くなることと、冬に枯れた植物がまだ残っているため、ちりが舞い上がりやすい。そのため白っぽくなるそうだ。
 それが「優しい色あいだから好き」という人もいる。未熟な腕のまま写真を撮るわたしには、「なんだか花が(葉が)映えない」と思える。
 それから春になると思うこと。同じようにすみれが咲き、同じように桜が咲き、同じように芽吹くのに、なぜか毎年美しさが違う。それはどの季節も同じではあるけれど、春は「春が来る」と期待しているから余計に感じるのだと思う。「春が来る」と思うときの「春」は、わたしの想像の中にある春だからだ。
 毎年、その年なりの春がやってくると、想像の春と同じではないので、「年によって違うなぁ」と実感が強くなるのだろうと思う。
 春は新年度があるので、気がつけば過ぎ去っている。花の時期は短いので、「あ、見逃した」と思っているうちに過ぎ去ってしまう。
 でも毎年、ふと気づくと、やっぱり春の空、春の思いがある。

PageTop

冬薔薇

冬薔薇


冬薔薇


晩秋に咲いていた秋バラが
まだ枯れずに花の姿を保っていた。

暖かい冬だから――
とピンクの花が言い、
黄色や白の花たちは
揺れてうなずいていた。



(別サイト 月の夜に降る雪より)

PageTop
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。