夢の海

――すべてうつろうその果てに――

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振り返った空

振り返った空


ふと振り返ると、平野が見えた。

人が住み、田畑があり、道路には車がたくさん走る平野。

でもこの小さな山にも、人は住み、畑はあり、狭い道に車も走る。

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懐かしのメロディ

 特にポップス――その当時はやっていたアーティストやグループの歌には思い出がからまりついている。
 クラシックの中にも思い出の曲というのはあるけれど、時代を問わない曲目はよほど強く出来事と結びついていないと「思い出の曲」にはならない。
 ポップス系の歌は、「誰々と別れて悲しかった時期に毎日聴いたっけ」とか「プロポーズされたとき流れていた曲なのよね」という特別なことがなくても、時代を思い起こさせる。
 それというのも、賞味期限が短いからだ。
 次から次へと出される曲、入れ替わっていく人気アーティスト。そのグループがいなくなったわけではなくても、前面に出ているアーティストたちは移り変わっていく。
 だから、歌の記憶は年代と密接に結びついている。小学校の頃、テレビでよく聴いた歌。中学校の頃、クラス皆が好きだったグループ。高校生の頃、はまっていたグループ。大学生の頃口ずさんでいた曲。
 その歌を聴くと、あるいはそのアーティストの名を聴くと、「ああ、あの頃はこうだった」と記憶が呼び覚まされる。
 歌特有のセンチメンタルな懐かしさだ。少なくともわたしにとってはそうだ。
 好きな歌でなくても記憶に残ることはある。
 たとえばわたしにとっては、中学生の頃、住んでいる古い家の後ろに新しい家を建てていた。大工さんは仕事中、ラジオをずっとつけていて、そこからは繰り返し、当時爆発的人気になりかけていた歌が流れていた。
 わたしはその歌を知らなかったし、ただ自分の机に座って宿題などをしているといつも聴こえていたからメロディを覚えただけで、歌詞などは間違って覚えていた。
 でもその歌を今たまたま聴くと、あのときの部屋と机と座っている自分が浮かんでくる。
 歌は思い出のよすがになる。とても強力なよすがになる。
 強力すぎるので、わたしはあまり昔の歌を聴くのは好きではない。
 それは否応ない力でわたしの思いを昔に引き戻し、当時の光景を思い起こさせる。そこからそのときの思いまで呼び覚ます。いい思いでも悪い思いでも。自分のとった行動や、言ったこと、考えたことがよみがえり、嫌な気持ちを味わうことにもなる。
 時代を彩ってきた歌には、そういう性質があると思う。わたしは歌に思い出を呼び覚まされるのは、時折でいいと思っている。

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かくれんぼ

かくれんぼ


地面に積もった枯葉の間から、
枯葉と見まごう小さな木が覗いていた。

まだ木になるには相当の年月がかかる、
小さい小さい木の子供。

これは真剣な命のかくれんぼ。
寒さをよけ、人目をよけ、乱暴な鳥や獣をよける。

隠れているけれど――
まるで枯葉のようにも見えるけれど――
この葉は光を必要としている。
熱を、大気を必要としている。

この葉は生きていて、
そして今は隠れ家を必要としている。

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家計簿日記

 実は家計簿はつけていない。
 やってみようとしたことは何度かあるけれど、ろくに続かず挫折するので、今はすっかり諦めた。もう「やってみようかな」という気も起きないし、たまに起きても「家計簿代の無駄になるだけ」と諦める。
 自分はつけていないが、家計簿をつける人たちの感想をまとめる仕事をしたことがある。いくつかの家計簿について、何年かやった。
 そうしてみると、「家計簿を日記のようにつけている」という人の割合は、とても多かった。
 家計簿は家計簿なのだ。一日ごとのメモ欄や備考欄に簡単な日記をつけている、という人が多かった。または、使わない項目欄を日記欄に割り当てて、そこに日々の出来事を書いている、とか。
 こういった一言日記をつけている人たちは言う。「もう何年もこの家計簿でそうしてきている。わが家の大切な歴史です」「もう十年分くらいたまっているので、宝物です」
 その日あった出来事だけを記録する人もいる。自分の気持ちを簡単に書きこんで、日記のようにしている人もいる。いずれの人も宝物だと言う。
 たぶん、日記ではダメなのだと思う。それこそたいして続かずに挫折してしまうのだろう。家計簿をつけるときちょこっと書きこむ、というのが続く秘訣であり、続いているから宝物になっている。
 もらったもの、あげたものを記載しているという人もいる。これは必要があってのことだ。お返しだって必要だし、来年も同じ時期に同じことでいただきものをするのだから。
 それもある種の日記になる。
 この日は誕生日だったから、何をもらった・あげた。この日はこういう記念日だったから、何をプレゼントされた・した。後から見返すと、「そうか、このときの職場の○○さんは、この日が誕生日だったのか」「××さんはこんなものをプレゼントしてくれたのか。そういえば趣味の話をしたことがあったっけ」と思い出をつなぐものだと語る。
 思い出をつなぐ物というのは、いいものだ。
 それは改めて「日記を書こう」と思うと続かなかったり、「記録しておこう」と思うと忘れたりするものである。どうせ毎日、必要があってつけるものに一言つけたしておくほうが続く。ただなんとなくしまっておいた物が出てきたとき、ふと思い出す。
 そう思いながら、わたしは家計簿であっても続かないので、どうにもならない。それじゃあ日記でも、と何度もやってみたことはあるが、やはり改まって日記を書こうとすると続かなかった。
 だから日記を今さらつけようとは思わないが、何かのついでに記録しておけるものがあったらいいとは思う。

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見渡す山の端

見渡す山の端

見渡す山の端


新年というのは、少し高いところから見下ろしたいと思うものだ。

たぶんそれは、自分の心を高い位置に保っておきたいという願いの表れなのだ。

家庭で、職場で、PTAや仲間内で、いろいろなことにつまずいて悩むであろう一年、
小さなことに踊らされず、自分を人間関係の混乱から離しておきたいという願いの――

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昔気質の少女

 いわゆる「少女小説」というのが好きで、年に関係なくよく読んだ。現代日本のではなくて、欧米の大戦前のものが好みだった。
 有名な作品に「若草物語」がある。「若草物語」の作者オルコットが書いた「昔気質の少女」という作品を読んだことがある。
 街の一家のところに、田舎の親類の娘が滞在する。(当時は知人の家に数ヶ月滞在するというのが当たり前の時代だった。)
 田舎娘は街の一家の家風に合わない古風なところがあった。街の一家は仕事で忙しいお父さん、家事より社交のお母さん、田舎娘と同じくらいの娘、その弟、おばあさん。お洒落はしないし、街の娘の浮わついた友達とは話が合わないし、生活のリズムさえ違う。早寝早起きなのだ。
 物語はこういう物語にお定まりの展開をたどり、田舎娘は次第に家の人たちの心を捉えてゆき、街の一家も心を取り戻す、という結末になる。
 もともとこの一家の中で、おばあさんは寂しい暮らしをしていた。今風の暮らしにちょっと合っていなかったのだ。田舎娘だけがおばあさんによくつきあっていた。だんだん一家が変わってきたラスト近く、田舎娘がおばあさんのところに話に行こうとすると、街の娘と弟がついてきた。
 田舎娘は「おばあさんとお話すると本当にとても愉快なのよ」と言い、「今日もお話をして」とせがむ。それはゲーム。子供はおばあさんの部屋を物色して、ひとつ品物を選ぶ。するとおばあさんは、その物にまつわるエピソードを話す、というルールだった。
「私はいつもやっているから、今日はあなたたちが選んでいいわ」と田舎娘がゆずる。
 おばあさんなんて退屈だと思っていた姉弟だが、部屋の中にはいろいろと面白いものがあった。
「じゃあ、私はこれにするわ」
 姉が選ぶと、おばあさんは「ああ、その手袋――懐かしいわねぇ。昔、おまえたちの叔父さんが」と語り始める。
 叔父さんの話だったかどうか、それに手袋だったかどうかも忘れたが、子供たちは「へぇ、あの叔父さんにそんな過去があったの」とか「うちの先祖にはそんな人がいたの」と面白く聞く。「おばあさんの話がこんなに面白かったなんて」と展開するのだが・・・・・・
 何かひとつの物をきっかけに、記憶がどんどんひもとかれて、懐かしい思い出が湧きだして来る。そういうことは、大人になれば多いと思う。年を重ねれば重ねるほど、懐かしさは募る。思い出も増える。
 捨てるときは何も考えず、バッサリ捨てましょう、と言われていて、それは本当に必要なことだと思う。そうでないと時間ばかりかかって全然捨てられない。
 でも捨てるからこそ、日頃から思い出を整理しておくのは大事かもしれない。

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朝日を浴びて

朝日を浴びて


金色の朝日を浴びて、
地に落ちた枯葉さえも目を覚ます。

まぶしい朝日を浴びて、
眠っていた枯葉さえも目を細める。

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思い出の品

 最近、「物を捨ててスッキリ暮らしましょう」というのがはやっている。
 そういうことを書いた本は大ヒット。雑誌でもテレビでも巷でも、「収納の極意は捨てることにあり」「スッキリ収納で快適に生活しよう」ということをうたっている。
 日本の住宅事情は広々したものではないし、経済的に豊かな国だから必需品も多い。場所がないことは確かなので、それは本当に重要なことなのだと思う。
 分かってはいるけれど、物を捨てるのが苦手な母の元に帰ったりすると、思わぬ昔の品が出てきて懐かしい気分に浸ることがある。物置きや納戸にしまいこまれて何年も経った品物が、あるときふと発掘されるのだ。
 小学校の頃の教科書が出てくることもある。小学生の頃、観光に行って買って、気に入っていたメモ帳にお菓子のレシピが書いてあるのを見つけたりする。
 それを糸口に、記憶が甦る。
 そういえば、小中学生の頃は、お菓子作りに憧れていた。オーブンのない家だったので、ケーキなどは作れない。それでもかっこいい「休日の午後のお菓子作り」に憧れて、オーブンがなくてもできるレシピを見つけるとメモしていた。
 「ヨーグルトを器に盛って、ジャムをのせてみかんを飾る」なんていう程度のものもあった。正直、それを作ってもかっこよくもなんともない。その上、盛ろうとすると器がかっこよくなかったりする。
 それでも諦めきれなくて、オーブントースターでクッキーを何回も作った。アイスクリームも何度か作った。板の間の台所に坐り込んでトースターのスイッチを操作して、全然かっこよくなかったなぁ。
 実家は、スッキリした暮らしを目指しながら、今ひとつ物が捨てられない母のごちゃごちゃした空間があるけれど、そこには思い出も残っている。
 そういうものは、1年2年では価値が出なくて、こうして20年30年経つと「懐かしいもの」になる。
 ――20年もいらない物をとっておけるわけがない。絶対に使わない30年前の小学3年生の国語の教科書なんて。
 とっておくべきだと言うつもりは、だからもちろん、全然ないのだ。ただ、捨てられないことにもときどきいいことがある、と思えるだけなのだ。

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静かな朝焼け

静かな朝焼け


もし、初日の出を見に行ったら――

たとえどんなに人がいようとも、
その瞬間、誰もが黙るはずなので、

そしてその「瞬間」というのは
うっすら地平が染まる頃から
球体がすべて姿を現すまで続くので、

静かに朝焼けを見られるはずなのだ。

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