夢の海

――すべてうつろうその果てに――

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人生の午後:カースト

 仕事先で「今日、少しだけ飲みに行きませんか?」と誘われた。
 誘ったのはAさん。わたしが担当する仕事の事務的部分をすべて取り仕切っている方なので、Aさんに誘われるとたいていの場合は断らない。
 誘われる2日ほど前に、「Bさん、少し前に発表をしなければならなかったんですけど、大成功だったらしいですよ」と聞いていた。ほかからも聞いていたので、「そうなんですってね。すごいですよね」と言っておいた。
 「お祝いをしなきゃいけませんよね」とAさん。そういう話もあるかな、と思っていたので、「そうですね」とわたしは答える。「Cさんにも伝えたんですけど、Cさんたら、ああそう、おめでとうって言っといて、って、それだけなんですよ」とAさんが笑いまじりに言う。「もう~、自分で言いなさいよ、って言ったのに、別にいいですよ、なんて言うんですから」
 ちょっと意地悪心がむずむず。そりゃそうですよ、Cさんにしてみたら、自分より下のBさんの成功なんて嬉しいわけないですもん。と言いたいけれど、口を閉じておく。
 Cさんはかつては出世コースにいたので、今偉くなっている人たちとも知り合いだ。しかし事情があっていったんドロップアウトすることになり、再び職に就いたときは正社員ではなかった。Bさんのほうははじめっから契約社員であり、今後も契約社員のままであることは分かっている。正社員登用の道はないからだ。
 かつて、それぞれにストレスを抱えていたときは、互いをほめあい、それに比べて正社員たちのふがいなさよと嘆く仲間だったけれど、Bさんは最近調子がいい。正社員にはなれないにしても、地歩を固めているようだ。それまでは、「かつての正社員で、偉い人にも知り合いがいる」ということで、BさんはCさんに対して少々下手に出ていたし、ほめあうにもより一層ほめる役だった。Cさんは「あなただって立派ですよ」と上から引っ張り上げる役だったのだ。それが今や対等である。――少なくともBさんは、「より一層ほめる役」は降りたようだ。お互いにイーブンにほめあう。
 Bさんと飲みに行ってゆっくり語りたいなんて、Cさんはもうあまり思っていないのだ。語り合うときは相手の話も半分は聞かなければならないし、イーブンになった今、語り好きのBさんの話のほうが断然多い。それなのに、ただ飲むだけでなく、「Bさんの成功を祝う会」として飲むなんて、そりゃやりたくないに決まってる。
 Cさんのお気に入りは、今やわたしだ。
 わたしはすべての人より下の立場で、誰に対しても下手に出なければならない。そもそも契約社員ですらないのだ。フリーランスに近いから、これが男性でもっと生活がかかってたら、もう仕事をもらうためにヨイショしまくらなければならないだろう。うちの場合、男性でなくてもかなり生活かかってるので、少なくとも上手に出ることは絶対にできない。
 Cさんにとって、かつてのBさん以上に、わたしはCさんをリスペクトしていて、ほめ殺しの人間だ。ときどきわたしは思う。若い頃、ホステスの仕事をしたことがあったけど、あの頃よりも今のほうがずっとホステスらしい仕事をしている――って。わたしなど、田舎の場末でちょこっと働いただけなので、銀座のレディたちの技などは知りもせず、適当な仕事ぶりだった。当然、よい成績も上げられないし、長くも続かなかった。でも今は、相手が求めるものを一生懸命提供している。今求められているのは「わぁ、すごいですね」という賞賛? 少し色めいた冗談? 冗談や小話の相槌役? 場に適したものをサッと出せるようにしなければ。
 わたしは楽しく盛り上がって楽しいと思えるので、そんなに無理をしているわけではない。ただちょっと、だんだんエスカレートしてきて、自分が楽しいと思えるレベル以上に頑張っているかな、と思えてきただけだ。とはいえ、やめられはしない。ある程度生活がかかっているから。最初からやらなければ「やらない人」だが、やっていて途中でやめたら反感を持たれてしまう。
 わたしなど世の主流の方々とは比べ物にならず、ささやかな社交術しか要求されない。それはこれまでの人生、大変楽だった。でもこう年をとってくると、「一番下っ端」が続くことに、ため息が出るときもある。
 偉い方々ほどわたしのような下っ端に対しても大変親切で、下にも置かぬように相手をしてくださる。――それというのも、別にそんなささやかなヨイショは必要ないからである。それ相応の人でさえ下手に出るような方などは、普段から満たされているので別にもう要らないのだ。だから求めない。鷹揚にこちらに対して親切にしてくれる。
 かつてホステスをした店は、小さすぎて大物が来ることはなかったが、一度だけ来たことがある。あるデンジャラスな筋のNo.2だと聞かされたが、とにかく鷹揚だった。いずこも同じである。
 わたしの社交努力を求めるのは、普段あまり満たされていない人なのだ。
 つまり、わたしは下の人から求められるさらに下の人なのだ。悲しいことに。歴史的に、農民は苦しい生活、苦しい労働を強いられていたが、下に賤民を置くことでその不満を解消させてきたと、聞いたことがある。インドのカースト制度でも、下のほうの人でも「でもまだ**がいる」と最下層のカーストがいるために救われているのだという。
 つまりわたしは、最下層のカーストなのだ。身分制は廃止され、自由な社会に見えるけれど、実は新しく身分制度ができている。それに気づかず若い頃を過ごしてしまうわたしのような者は、後からずっと低いカーストに甘んじなければならない。
 人生の午後になって、そんなことが思われるようになってきた。

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粉砂糖

粉砂糖


うっすら積もった雪は、葉なら葉が見え、花なら花が見え、
地面も隠されはしないし、まるでケーキに降りかける粉砂糖。

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「普通」――定番のたこ焼き

 とにかく「これがいい」となったらもう、まっしぐら。ほかのものなどなくなってしまうのが現代社会というものなのかもしれない。または、もともと人間てそうなのかもしれない。いや、もしかしたら日本人てそうなのかもしれない。
 わたしはたこ焼きが好きだったが、邪道の好み方だった。たこにはそれほど関心がないのだ。
 大たこ焼きとたこの大きさを売りにするのが一時期多くなっていて(もう20年も前の話だが)、初めて今の夫とたこ焼きを食べたとき、「たこが大きい必要はない、むしろいらないくらいだから」と言ったら驚かれた。別にたこを出して食べてもいいのだ。パンもパスタも好きだし、わたしは小麦粉好きなのだ、たぶん。
 でもわたしが好きだったたこ焼きは、昔風のたこ焼きだった。中までふっくら火が通っているたこ焼きだ。
 ある日どこかで「外側はカリッと、中はトロッと」という売り文句を見た。「中がトロッと」しているのは、わたしは好みではない。カチカチになっているのはさすがに好きじゃないけれど、あのトロ~ッと中身がとろけているのはどうもダメなのである。
 ところが数年も経つと、もはや家で作るたこ焼きまで「外はカリッと、中はトロッと」作るのが主流になってしまったようだ。雑誌などでちらっとレシピを見ることがあっても、とにかく「中はトロッと」なのだ。当然、外で買えばどこもここも「中はトロッと」である。
 うまい店や屋台は、おいしく中をトロッとさせているし、下手な店や屋台は、中が半生だ。ただとにかく「トロッと」系オンリーなのだ。
 家でまめに料理やお菓子作りをするほうではないので、家で作れば好きな硬さにできると言われてもやる気はない。おいしくて、中までふわっと火の通ったたこ焼きが食べたいなぁ、とため息をつくばかり。
 中がトロッとしているのはだいたいガッカリするが、一度だけ本当においしい「トロッとたこ焼き」を食べた。それは普通のたこ焼きとも少し違うようだった。若い店主が若い仲間と始めた店のようで、オリジナルなのだろうと思った。普通にイメージするたこ焼きとは別物としておいしい。
 そのことをブログに書いた。誤解のないように明確に「普段は中がトロッとしているたこ焼きは好まない。しかしここのたこ焼きは、おいしかった。ほかのトロッと系のたこ焼きとも少し違うようで、別物である」と書いた。でもブロ友さんからは、「中がトロッとしているのはおいしいですよね」「私もうちで作るときでもいつも中はトロッとさせてますよ」というコメントが。
 多くの人が「やはりたこ焼きはトロッとしてないと!」と思うのかもしれないけれど、わたしは昔風の定番、中まで火の通ったたこ焼きが好き。一律にみんな同じものを出すのじゃなく、個性を出して営業してくれないかなぁ。
 とはいえ、そんなものを出したら今の世の中、「火が通りすぎ!」「焼きすぎていた。腕が悪い証拠」と言われてしまうだろう。
 ひとりひとりの個性が大事なんでしょ? よくいろんなところでみんな好き好んでそういう格言を口にするじゃない。だったらもっと個性を認めようよ、と思うときがある。本当に。

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白いベンチ

白いベンチ


うっすらと雪が積もった土の上。
もう石畳の上の雪は消えた朝。

ベンチは白く綺麗に塗られている。
粉砂糖のような雪が降りかかって、塗られている。

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「普通」――ラーメン談義

 昨今のラーメン屋さんというのは、すごい。――ラーメン屋さんというか、ラーメン文化というか。
 昔とは全然違っている。
 凝った味付け、コクを追及する姿勢(こってり系であれ、あっさりの中にもコクあり系であれ)、こだわり、オリジナリティ。わたしが子供の頃にあったような、フツーのラーメンなど、今やお目にかかれない。
 たぶん、若い人はそんなラーメン、知らないだろう。そういう知らない世代に説明するには、インスタントを想像してもらうしかないかもしれない。サッポロ一番とか、明星チャルメラとか、ああいう袋麺を自宅でシンプルに作ったような味――プラス、ゆで、または炒め野菜が乗っていたり、インスタントよりはコクがあったり脂が浮いていたりする。そんな感じ。
 実際はインスタント麺とはまた全然違うのだけれど、いってみればああいうシンプルさ、「フツーさ」があったわけだ。
 特に関東のラーメンはそうだった。寒い東北地方や北海道には、北のこってりラーメンの系譜が昔からあったが、関東のラーメンはもっと「フツー」だったのだ。
 ラーメン好きの夫につきあって、中年の今になってもラーメン行脚によく行く。最近のはやりは物産展ラーメン。若い頃は、近所のラーメン店を全制覇するという手法だった。
 「北海道」というそれだけでブランドなラーメン屋さんであっても、物産展に来るような店はこだわりの店が多い。麺のこしがどうこう書いてあるところもあるけれど、やっぱり素人にも分かりやすいスープに一番特徴がある。透明な美しいスープで、絶妙のコクがありながらシンプルな味わいの店。こってりしたみそ味で、これ以上こってりしていたら食べられないという絶妙のところで調味された店。白みそを使ってコクと甘みをバランスよく出している店。「**スープ」と奇妙なネーミングをつけている店――味は普通のこってり味噌味。対極で、ほとんど味が感じられないようなラーメンを出す店――食べ続けているとだんだん味を感じられるようになる。
 関東でも、昔ながらの普通のしょうゆ味、みそ味といったラーメンではない、オリジナリティ溢れるスープが登場し、意欲的な若い店主たちが味を極めようとしている。有名店ともなれば、弟子やのれん分けの制度がいつのまにかでき、「**系」と呼び名がついていたりするようだ。
 何年か前に、「今のラーメン屋さんは2つに分類できる。昔ながらの単なる中華料理屋的ラーメン屋と、近年隆盛しているこだわり系のラーメン屋だ」と考えたことがある。それが今は、こだわり系のラーメン屋オンリーだ。いかにも何十年も前から変わらず営業しているようなラーメン屋をたまに見かけると、驚くくらいである。
 ちなみにこだわりのオリジナリティあふれるラーメン屋さんというのは、だいたい似たようなベースだと思う。――つまり、「昔風のフツーの」と比較しているから、より分かるのかもしれない。対比すると、昔ながらのフツーのと比べてこってり。だしが決め手。コクあり。にんにくやごまが調味料的に使われている。この「今風ベース」を、自店用に、また自分流にアレンジした結果が各店のオリジナリティのように思える。
 このような時代にあって、昔風のフツーのラーメン屋さんは「こだわりのない、とりたてていいところもない」店と思われてしまう。食べればおいしいので、「まずくない」。――けど、なにしろスープも今風のと比べればこってり感が足りないのである。「うまくもない」となる。
 20年以上前に夫が好んでいたラーメン屋さんは、今は遠くなったのでめったに行かない。とてもおいしいと相当気に入っていたが、その店を今ネットで見ると、「まずくもないけどうまくもない」「おいしくないわけじゃないけど、とりたてて言うほどのうまさじゃない」「この店をうまいと評価する人がいるとは」となる。
 昔風のラーメンというものがあると知らない人にとっては、ただのこだわりのないラーメンに見えるかも。中年以降らしい人たちは、「昔ながらのラーメン屋だね」と言っている。
 夫もわたしも、今風のこってりしたラーメンはおいしいと思う。でもそれはそれ、たまにはもう少しシンプルなコクだった昔風の「普通の」ラーメンが食べたくなる。
 食べたくなっても、もうそんなラーメン屋さんはめったにない。
 そうなってくると、今風のおいしさが全部画一的に見えてくる。だいたいどれも同じようなこってり感、同じような脂感、同じようなにんにく感、同じような麺のこし。結局、その差は、かつて普通のラーメン屋さんがそれぞれの店で違っていた程度の違いでしかない。これとは違う、シンプルなラーメンが食べたいと思うことがある。
 でもいったん時代が変わってしまうと、日本人の移り身は早い。昔風のラーメン屋さんで、かつおいしいところなど、そうそうないのである。
 だからどうかいじめないで。こういうラーメン屋さんを残しておきたいから、とインターネットの画面につぶやきたくなるのである。

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縁取り

縁取り


小さな葉を縁取る美しい白レース。
早い朝だけ見ることができる、冬の飾り。

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客観視

わたしは落ち込んだり悩んだりすることの多い人間です。
暗くなったり、愚痴や悩みをえんえん語ったりします。

だから友人たちからは、誤解されるときがあります。
わたしが冷静に判断しようとする姿がネガティブに見えるらしく、励まされるのです。

落ち込んでいるときのわたしには、励ましが有難いかもしれません。
ですが、自分なりにたどりついた結論を説明しているときは、励ましは必要ありません。
わたしはただ自分の考えを話しているだけであり、求めているものがあるとすれば、それは理解です。
励ましではないのです。

しかしこの「落ち込んでいる」状態と「客観的に捉えようとしている」状態は、区別がつきにくいようです。
客観的に、公平に見た意見は、しばしばネガティブと受け止められるのです。

「職場で、同じ立場のある人のほうがわたしよりも評価されている」とか「別の人のほうがわたしよりも有能である」と説明していると、自分を卑下していようにとられることもあります。
だから「そんなに自分を低く見ることないよ!」と励まされたりします。
「あなたは有能だよ!」と言われたこともあります。

でも根拠のない有能説を持ち出されても、それが何になるでしょう?

「いや、本当にその職場では、わたしはその人より能力が低いのよ」といくら説明しても、返ってくる答えは「悲観的になることないよ!」だったら、わたしは友人に理解されていないと思えてしまいます。
どこが有能だと思うか聞いたとしても、簡単に粉砕できる答えしか返ってきません。
彼女はわたしのほうが有能だと思っているわけではなく、悲観的になっているわたしを励ましているだけです。
――しかしそのときわたしは、悲観的になっているわけではないのです。

もし自分の状況が気に入らないのなら、何か手を打たなければなりません。
それにはまず、状況を客観的に把握することから始めなければなりません。
でないと有効な手段を見つけられないからです。

わたしのほうが劣っているなら、劣っている事実をまず認めなければなりません。
その上で、どうするかを考える必要があります。
劣っていないなら、劣っていないのになぜ評価が低いか考えなくてはなりません。

ラーメン屋さんが「向かいの店は繁盛しているのに、どうしてうちの店は客が来ないのだろう?」という状況にいたら、まず状況を分析することから始めるべきです。
相手のラーメンを食べてみて、冷静に「うちのラーメンのほうがまずい」と認識する必要があります。
それでこそ次の手を考えることができるのです。
おいしいラーメン屋さんで修業しなおすのか? 麺のメーカーを変えるのか? スープを研究するのか?
「うちのラーメンは向こうの店に比べてまずいんだよ」と言ったとき、「そんなことないよ! おいしいよ!」と言われて何になるでしょう?

もし本当に相手の店よりおいしいのなら、話は別ですが。
その場合は、店が綺麗でないからいけないのか? 値段が高いのか? 待たせる時間が長いのか? など、考えなくてはなりません。

どちらにしても「客観的」「公正に」というのがカギです。
おいしいのに「うちの味はまずいんだ」と悲観的になっても仕方ありません。
まずいのに「いや、うちはうまい!」とただポジティブに信じ込んでいても、何も始まりません。

しかしわたしの言い方がいけないのか、客観的と思う事実分析は多くの場合「ネガティブ思考」と受け止められ、励ましやポジティブシンキングのアドバイスが返ってきます。
せっかく励ましてくれても、「それが何になるの?」と思うようなわたしは、ドライだと言われ、冷たいと思われることも多くあります。

でも――
本当に前に進みたいと思うなら、ありのままに見つめる勇気を持たねばなりません。
そして前向きな思い込みだけではなく、地道な努力も必要なのです。
裏付けのない励ましよりも、勇気を持って真実を告げてくれるほうが有難いときもあります。

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朝日

朝日



走る車窓から見える朝日。

オレンジ色の山際に、昇る朝日。



朝日

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聞き役

電話が来て、出たら知人の「仕事は辞めようと思う」宣言だった。
 どう考えても、辞めないほうがよいと思った。その時期の社会や失業、再就職の状況と、知人自身の状況を考えると、組織が通告しているわけでもないのにもったいない。
 とは思ったものの、辞めるという考えを否定はしなかった。
 わたしとその知人は対等な関係ではなかった。かなり利害を離れたところで培われていた交流とはいえ、わたしは「目下の者」だ。それに、「もう耐えられなくなった。今辞めたいなんて損だと分かっているけれど、限界だ」という。その気持ちは分かる。
 そんなわけで否定は一切口にしなかったが、後から少し心配にもなった。あまり人には言わないつもりだと言っていたので、反対の意見を聞かないまま辞職してしまうかもしれない。相手のことを思うなら、相手が聞きたくないことも言うべきじゃないだろうか?
 後日、別件で連絡があったとき、まだ辞めていないと言っていた。
 わたしが肯定的聞き役に徹していたのは、結局正解だった。
 そもそも、心配するほど内密ではなかったようだ。ほかにも何人かに相談したようで、軒並反対派だったらしい。
 人は相談をするとき相手に勝手に役割を振っている。たとえば前述の知人がわたしに振っていた役は肯定的聞き役だったと思う。わたしに反対意見を言われても、期待した役、つまり効果を得られなくてがっかりするだけだったろう。参考意見はもっとほかに聞くべき人がいるのだ。
 わたしは知人の多くからそういう役割を与えられるので、よく分かるつもりだ。なんとなく自分の中に序列ができていて--それは意識していなくてもあって、意見を求めたいのは上、あるいはせめて対等と捉えている人なのだ。ということは、わたしは多くの人から「リスペクト」されていないということになってしまうのだが、まあ実際そうだ。
 「そうだ」というのは、「下と思われている」ということについてで、「下だと心底自覚している」ということではない。
 人というのはだいたいが自分を高めに評価しているもので、わたしなど俗人だからまさにそうなのだ。
 自分のあてがわれている役を読み違えて深刻に意見など言って失敗したことが何度もある。失敗といってももちろん相手も節度があるから、「あれ?」と肩すかしをくったような気分になるだけだ。だからなおさら気づくのが遅れた。
 今はわたしも大人になり、自分に何を期待されているか分かることも多くなってきた。
 しかし期待に応え続けるのは、その役割が小さなものであるがゆえに難しいものである。

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