夢の海

――すべてうつろうその果てに――

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千夜一夜物語 まえがきより

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千夜一夜物語 まえがきより抜粋

リチャード・バートン

(「バートン版 千夜一夜物語」 大場正史 訳)



 ・・・・・・

  ものうい,平凡で,<お上品>なわたしの環境から,魔神(ジン)はたちまちわたしをともなって,あこがれの国アラビアへとつれ去った。この国はわたしの心にとっては,たいへんなじみ深い国だったから,初めて見たときでさえも,遠い昔の輪廻の生命を思いおこさせるような気がした。ふたたびわたしはすきとおった」青空の下に,エーテルのように輝く大気に包まれて,つっ立った。大気の息吹は,泡立つぶどう酒のように,人々の心をふるいたたせてくれるのである。そしてまた,ふたたび,わたしは西方の蒼穹のまっ正面に,ひとつはめの宝石のようにかかっている宵の明星を眺めた。すると,にわかに,さながら魔法にかけられたように,飾り気のない,凸凹した土地の相貌が夕ばえをうけて,ほかの土地や海を照らすことのない光線で輝きわたった,おとぎの国へうつり変わっていった。それからまた朽葉色の粘土や褐色の砂利のはてしない荒れ地の中に,黒点のようにちらばっている本物のバダウィ族の,低く,黒い毛布の天幕やぽちっと蛍火(ほたるび)のように部落のまん中に輝いているかがり火も,きまってあらわれてきた。

  やがて,黄昏をぬって羊や山羊をかり立てていく,というよりむしろ,なぐりつけて追っていく若い男女の荒々しい,聞きなれない歌声や,あずかった駱駝のうしろからゆったりと大股に歩いていく槍使いたちの調子のそろった歌声が,羊の群れの鳴き声と瘤をもった獣の群れの咆哮にいりまじって,遠く離れているためか,いっそう快い響きとなって,わたしの耳に伝わってきた。また,いっぽうでは,頭上をとびまわる栗鼠(りす)のかわいい鳴き声,しだいに濃くなっていく夕闇をつんざいて響きわたるヤマイヌの怒号,それに---音楽の中でも,いちばん旋律的であったが---流れ落ちる水の,たいそうやさしい調べをもって夜の微風のささやきに答える棕櫚(しゅろ)の葉ずれの音,こういったものも,きまって聞こえてくるのであった。

  それから,舞台が一変すると,アラブ人の老人(シャイフ)や<白髯(はくぜん)の翁(おきな)>がおごそかにいれ替わり,かがり火をかこんで,アラブ人の形容によると,草原の塚さながらに服の裾をひらいて坐りこんでいる。そのあいだ,わたしは一同の款待(かんたい)に報い,いつまでもその款待をつづけてもらうため,みなの好きな物語を少しばかり読んだり,暗誦してやったりする。女も子供も車座の外側に影法師のようにじっとたたずみ,耳をすませて,息をのんでいる。耳だけではあきたらず,目からも口からも話をのみこもうとしているように思われる。どんなにばからしい,奔放な空想でも,どんなに奇々怪々な事柄でも,不可能事の中のもっとも不可能な事柄でも,彼らにとっては,ごく自然な,日常茶飯のことのように見えるのである。

  作者がつぎつぎにわき立たせていく感情の起伏の中へ,彼らはすっかりはいりこんでしまい,タジ・アル・ムルクの任侠精神や騎士道的な武勇をわがことのように誇り,アジザーの献身的な愛情に感動して,ほろりとする。また,うず高く積んだ千金の黄金を土くれのようにチップとしてふるまう話をきくと,口から涎(よだれ)を流し,判官(カジ)または托鉢僧(ファキル)が荒野の下品なおどけ者から浅ましいあしらいをうけるたびに,くすくす笑い興じる。なおまた,ふだんはまじめくさった顔をし,感情を表面に出さないけれど,おしゃべり床屋やアリやクルド人のいかさま師といった話になると,みんなどっと,腹をかかえて笑い,時には地面をころがりまわるくらいである。読むほうでさえ,しかつめらしい相好をくずして,あやうくふき出したくなる。

  こういった心楽しい雰囲気も,稀れにではあるが,破られる時がある。それは,時には祈祷も唱える,人なみ以上にすぐれた嗜み(たしなみ)を身につけたバダウィ人がとっぴょうしもなく「アスタグファルラー」---アラーよ,許したまえ---という叫び声をあげるときである。つまり,これは,みながカーライルのいわゆる<まっ赤なでたらめ話>に耳をかしたからではなく,砂漠の貴族のあいだでは決して聞けないセックスの話をちょっとばかり耳にはさんだためなのである。

  ・・・・・・



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ひなたぼっこ

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昼の駐車場。

のんびりひなたぼっこ。

冬でも昼なら暖かい。



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自由自在に楽しめる。

目を細めて楽しめる。




ひなたぼっこ/猫


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目を閉じて

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朝まだき。

寒さと眠さで目を閉じる。


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実はけっこう男前なんだけどね。



目を閉じて/猫


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見下ろす

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あらあら、あんたたち、何してるのかしら。

こんな寒い朝は、日向でじっとしてるのが一番なのに。

動いたら冷たい空気が突き刺さるわ。



見下ろす/猫


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爪とぎ

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急に欲求に襲われる。

そういうもんだから仕方ない。



爪とぎ/猫


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おすまし

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ちょっとおすまし。

あたしは育ちのいいお嬢さんなのよ。

愛嬌はあるけど、媚は売らないの。




おすまし/猫


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寒さ

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寒いからね。

毛に暖かい日の光をできるだけためこんで。

じっとしていよう。

光が当たると暖かい――




寒さ/猫



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ガラクタ屋

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ガラクタ屋

ジョージ・オーウェル

(『イヴニング・スタンダード』 1946.1.5号)
(「一杯のおいしい紅茶」 小野寺健 編訳)



 ロンドン一魅力的なガラクタ屋つまりジャンク・ショップはどこかと言っては、好みの問題だから議論の種になるだろう。だが、グリニッチでも汚らしい界隈、イズリントンにあるホテル、エンジェルの近く、ホロウェイ、パディントン、エッジウェア・ロードの裏になる辺りなら、いくつか一流のジャンク・ショップにご案内できるだろう。リージェント公園の付近でも、ローズ・クリケット競技場の近くには二、三ないことはないが―――ただし、この場合も、店があるのは廃墟同然と化している一画だ―――いわゆる高級住宅地では、問題になるジャンク・ショップなど見かけたためしがない。

  ジャンク・ショップは、あくまでも骨董屋とはちがう。骨董屋というのは、清潔で、品物もきれいにならべてあって、実質の倍くらいの値段がつけてあり、ひとたび中へ入ろうものならうるさくつきまとわれ、ついに買わされてしまう店である。

  ジャンク・ショップのほうは、ショーウィンドーもうっすら埃をかぶっていて、置いてあるのも捨ててもいいようなものが珍しくなく、たいてい奥の部屋で居眠りをしている主人は、まるで売りつける気もない。

  それに、一番の宝を一目で発見できることはぜったいになく、たいていは竹製のケーキ・スタンドがごたごたならんでいるなかから拾いださなければならない。料理が冷めるのをふせぐためにかぶせるブリタニアウェア(しろめ)の皿覆い、大型の懐中時計、あちこちページが折れている汚い本、ダチョウの卵、今では存在しないメーカーのタイプライター、レンズの入っていない眼鏡、栓のないデカンター、鳥の剥製、針金でできた炉格子、鍵の束、ボルト・ナットがはいっている箱、インド洋産のほら貝、靴型、中国製のショウガ壷、ハイランドの城の絵といったものが、ごちゃごちゃしている。

  こういう店では、メノウなどの貴石がついているヴィクトリア朝時代のブローチやロケットという、掘り出し物にぶつかることがある。

  十中八九は汚くてどうしようもないが、なかにはきわめて美しいものもある。銀の台にはめこまれていたり、もっと多いのは金のまがいで銅を混ぜた金色銅の台にはまっているもので、近ごろこのきれいな合金ができないのはどういうわけだろう。

  このほかの掘り出し物には、蓋に絵が描いてあるパピア・マシェ(箱、盆などの製造に用いる紙粘土状の模擬紙)でできた嗅ぎ煙草入れ、ラスター(真珠の光沢をもつ陶磁器)でできた水差し、1830年前後の先込め式ピストル、瓶の中に造った船の模型などがある。こういうものは今でも造られてはいるが、古いものがいいのだ。ヴィクトリア朝の瓶は形が美しいし、グリーンのガラスの微妙な色合いがいい。

  また、オルゴールや、馬具につけた真鍮の装飾金具、女王即位祭の角製の火薬入れの形をしたジョッキ(どういうわけか、1887年の即位五十年祭のもののほうが、十年後の六十年祭のものよりはるかに高級である)、あるいは底に絵が入っているガラスの文鎮などがある。

  そのほかにもガラスの中に珊瑚を封じこめたものもあるが、これは例外なくべらぼうに高い。ヴィクトリア朝の新型服装図とか、押し花がぎっしり貼ってあるスクラップブックに出会うこともあるし、まれに見る幸運に恵まれれば、スクラップブックの親方のようなスクラップスクリーンが見るかることもある。

  スクラップスクリーンというのは、いまではすっかり珍しくなってしまったが、要するにふつうの木製の板かキャンバス地に、切り抜いた色刷りのスクラップを、何とかまとまって格好のついた絵になるように張り合わせた衝立である。最高のものができたのは1880年前後だが、ジャンク・ショップで買ったのではかならず傷んでいて、じつは、こういうスクリーンを持つ最大の楽しみは自分でそれを補修することにあるのだ。

  美術雑誌の色刷りページとか、クリスマスカード、絵はがき、広告、本のカバー、ときには煙草の箱に入っている景品用の引換え券まで使うことができる。一箇所は、もう一枚スクラップを貼れる場所がきっとあるもので、そこに慎重に選んだものを貼れば、かならずもっともらしい絵ができあがるのだ。

  というわけで、自分だけしか持っていない自家製のスクリーンでは、黒い酒瓶をかこんでトランプに興じているセザンヌの男たちが中世のフィレンツェの街路と鼻をつきあわせ、その街路の向こう側にはゴーガンの南海の島の住民がイギリスの湖のほとりにすわっていて、その湖では袖が三角形のブラウスを着た女性がカヌーを漕いでいる、ということになるのである。こういうものが、みごとに一枚の絵になっているのだ。

  こうしたものはすべて骨董だが、意外なことに、ジャンク・ショップでも実用品が見つかる場合もなくはない。

  リージェント公園に近いケンティッシュ・タウンの店では、空襲のあとでフランスの銃剣を六ペンスで買ったことがあるが、これは四年間、暖炉の火掻き棒代わりに使うことができた。そしてこの数年は、かんなのような大工道具とか、栓抜き、時計のネジを巻く鍵、ワイングラス、銅製の鍋、乳母車のスペアタイアといったものを買おうと思えば、このジャンク・ショップしかなかったのだった。

  どんな錠前にでも合う鍵が見つかる店があるかと思えば、絵を専門にあつかっていて額縁が必要なときに助かる店もある。わたしは絵を買ったあとに額縁だけのこして絵は棄ててしまうという方法で、何度も最低の値段で額縁を手にいれた。

  しかし、ジャンク・ショップの魅力は掘り出し物との出会いどころか、甘く見てもそのせいぜい五パーセントしかない美術的な価値とさえ関係がなく、その魅力は、だれの心にもひそんでいるコグルマガラス―――つまりこまかなものを盗みたがる本能にあるのだ。銅の釘とか、時計のゼンマイ、レモネードの瓶に入っているビー玉のようなものを、子供が集めたがるのと同じなのである。ジャンク・ショップを楽しむには、何かを買うどころか、買いたいと思う必要さえもない。

  トテナム・コートロードには、何年も昔から、汚くて手にとる気にもならないもの以外見つかったためしのない店が一軒あるし、逆にすぐ隣のベイカー・ストリートにはかならず欲しくなるもののある店がある。ところが魅力という点では、トテナムの店もベイカー・ストリートの店に劣らないのである。

  もう一軒チョーク・ファーム地区にも、古い金属製のガラクタしか売っていない店がある。ずっと昔からいつでも同じ、おんぼろな道具と半端な鉛管がトレーにならんでいて、入口を入ったところには、これもいつでも同じガスストーブが何台もおみこしを据えている。何か買ったこともなければ、買いたいと思うものを見かけたためしもない。それでいて、その辺へ行ったときには、かならずちゃんと寄って丹念に眺めないと気がすまないのである。



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海は静かだった。

ある日突然、牙をむくこともあるなんて、
想像できないほどに。

冬の海は静かだった。

自分の中で生まれ、自分の中に消えていった命を、
自分の外で生まれ、自分の中に消えていった命を、
まるで悼むように。



海/海


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ボーダー柄

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横にたなびく雲。

まっすぐな水平線。

海中に置かれたテトラポット。

こまかく立っている波も横並び。



ボーダー柄/海


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テトラポット

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テトラポット、なぜか心惹かれる人工物。

こんなに人工的なのに、なぜか自然に溶け込んでいる。

テトラポット、なぜか眺めてしまう人工物。




テトラポット/海


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同じ景色

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主役は張り出した突堤。
それを引き立てる海の青。



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主役は雲。
海と空の境。
突堤に沿って順次打ち寄せられる波。




同じ景色/海


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目線の先

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砂浜。
足跡は波が消してくれる。

でも届かないところもある。

波が届くところはなめらか。



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向こうの空。
雲が横並びに浮かんでいる。

雲の上には空がある。

雲があるところまでは海の一部。



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向こうの岸。
白い岩肌をさらす崖。

あの上に人は入れるのだろうか。

あの上から見たらどんなだろうか。



目線の先/海


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此岸

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わたしが立っているのは此岸。

ずっと彼方には彼岸があるのかもしれないけれど、
わたしが立っているのはまだ此岸。

波は打ち寄せては返す。



此岸/海


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静かの海

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美しい言の葉を書こう。
こんなに美しい海だから――

何かとても美しい言葉を。



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美しい響きを聞こう。
こんなに静かな海だから――

きっと打ち寄せる波も静かに違いない。



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美しいことを考えよう。
彼方の水平線が誘うから――

この海の彼方。あの空の彼方。
旅路の果てのさらに先――




静かの海/海


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一杯のおいしい紅茶

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一杯のおいしい紅茶

ジョージ・オーウェル

(『イヴィニング・スタンダード』 1946.1.12号)
(「一杯のおいしい紅茶」 小野寺健 編訳)


 手近な料理の本を開いて「紅茶」の項目を探しても、まず見つからないだろう。たとえ二、三行かんたんなことは書いてあっても、いちばん大事ないくつかの点では何の参考にもならないのが関の山なのだ。
  これは妙な話である。何しろ紅茶といえば、アイルランド、オーストラリア、ニュージーランドまでふくめて、この国の文明をささえる大黒柱の一つであるばかりか、その正しいいれかたは大議論の種なのだから。
  完全な紅茶のいれかたについては、わたし自身の処方をざっと考えただけでも、すくなくとも十一項目は譲れない点がある。そのうちの二点には、大方の賛同を得られるだろうが、すくなくとも四点は激論の種になることだろう。以下に十一項目、どれをとってもわたしがぜったい譲れないものを列挙する。
  まず第一に、インド産かセイロン産の葉を使用することが肝心である。中国産にも、いまのように物のない時代にはバカにできない長所はある。経済的だし、ミルクなしでも飲めるから。しかし、これは刺激にとぼしい。飲んだからといって、頭がよくなったとか、元気が出た、人生が明るくなったといった気分にはならない。「一杯のおいしい紅茶」というあの心安らぐ言葉を口にするとき、だれもが考えているのは例外なくインド産の紅茶なのである。第二に、紅茶は一度に大量にいれてはいけない。つまり、ポットでいれることだ。金属製の大きな紅茶沸かしでいれた紅茶はかならず不味いし、軍隊の、釜で沸かした紅茶となったら、油や石灰の臭いまでついている。ポットは陶磁器、つまり土でできたものでないとだめなのだ。銀やブリタニア・メタル(スズ、アンチモニー、銅などによる、銀に似た合金)製のポットでは不味くなるし、エナメルのポットはなおいけない。ただし、不思議なことに、さいきんではあまりお目にかからない白目(スズなどが主体の鉛などとの合金)のポットは意外にわるくない。第三に、ポットはあらかじめ温めておくこと。これにはよくやるようにお湯ですすぐよりも、ポットを暖炉の棚から突き出ている台にのせて温めるのがいい。第四に、紅茶は濃いことが肝心。一リットル強入るポットに縁すれすれまでいれるとしたら、茶さじ山盛り六杯が適量だろう。いまのような配給時代には毎日そんなまねはできないけれども、一杯の濃い紅茶は二十杯のうすい紅茶にまさるというのが、わたしの持論である。ほんとうの紅茶好きは濃い紅茶が好きなだけでなく、年ごとにますます濃いのが好きになっていくもので、この事実は、老齢年金受給者の配給量には割増があることでも証明されている。第五に、葉はじかにポットにいれること。ストレイナーを使ったり、モスリンの袋にいれたり、紅茶の葉を封じこめる細工を弄してはいけない。国によると、紅茶の葉には害があると思って、葉をつかまえるためにポットの口の下に小さなバスケットをとりつけたりしているが、紅茶の葉はかなり飲んでも害はないし、葉がポットのなかで動けるようにしておかないと、よく出ないのである。第六は、ポットのほうを薬缶のそばへ持っていくべきで、その逆ではだめだということ。お湯は葉にぶつかる、まさにその瞬間にも沸騰していなければだめで、となれば注いでいるあいだも下から炎があたっていなければいけないのだ。そのお湯もはじめて沸かしたものでないとだめだと言う人もいるが、これは影響がないらしい。第七は、紅茶ができたあと、かきまわすか、さらにいいのはポットをよく揺すって葉が底におちつくまで待つことである。第八は、ブレックファースト・カップつまり円筒形のカップを使い、浅くて平たい形のは使わないことである。ブレックファースト・カップならたくさん入るし、平たいカップでは、まだ満足に飲みはじめないうちに、かならず冷めてしまう。第九は、紅茶にいれるミルクから乳脂分をとりのぞくことである。乳脂が多すぎると紅茶はきまってむかつくような味になる。第十は、まず紅茶から注げということ。ここが、最大の議論の一つである。イギリスの家庭はどこでも、この点をめぐって二派にわかれると言ってもいいだろう。ミルクが先だという派にも、なかなか強力な論拠はあるけれど、わたしの主張には、反論の余地はないだろう。つまり、紅茶を先に注いでおいて後からミルクを注ぎながらかきまわしていればその量を正確にかげんできるのに、逆の順序でやったのではついミルクを入れすぎるではないか。
  つぎはいよいよ最後になるが、紅茶には―――ロシア式でないかぎり―――砂糖をいれてはいけない。この点は少数派であることくらい、充分承知している。しかし、せっかくの紅茶に砂糖などいれて風味を損なってしまうようでは、どうして紅茶好きを自称できよう。それなら、塩や胡椒をいれても同じではないか。紅茶はビール同様、苦いものときまっているのだ。それを甘くしてしまったら、もう紅茶を味わっているのではなく、砂糖を味わっているにすぎない。いっそ白湯に砂糖をとかして飲めばいいのである。
  紅茶そのものが好きなわけではなく、ただ温まったり元気が出たりするから飲むので、苦みを消すには砂糖がなければという人がいる。こういう愚かな人には、ぜひ忠告したい。砂糖抜きで飲んでこらんなさい、まあ、二週間くらい。まず確実に、二度と砂糖でぶちこわす気にはなれなくなるから。
  紅茶の飲み方をめぐる論議なら、まだまだつきないけれど、以上でも、この問題がどれほど凝った複雑なものになっているかはわかるはず。この他にもティー・ポットの周辺には不可解な社会的エチケットもあるし(たとえば、なぜ受け皿で紅茶を飲んではいけないのか)、運勢を占うとか、客の来る来ないを当てるとか、兎の餌になるとか、火傷の薬、カーペットの掃除用といった、葉の副次的利用法についてもいくらでも書けるだろう。ただ、ポットを温めておくとか、かならず沸騰しているお湯を使うといった細かい点にだけは気をつけて、使い方さえ上手なら二オンスという乏しい配給量でもとれるはずの、濃くておいしい二十杯の紅茶だけはしぼりだしたいものである。



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雲上の富士

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厚く敷き詰められた雲の上に、
雲上の富士。

地上は雨。

だがここは遮るものなく光が満ちる。



雲上の富士/富士


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遥かの富士

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遥かの富士。

空がグラデーションに染まり、
頂いた白冠が映る。



遥かの富士/富士


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