夢の海

――すべてうつろうその果てに――

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夕焼けと鉄塔

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燃える夕焼け空に浮き上がる鉄塔。

黒々と巨大に浮き上がる。



夕焼けと鉄塔/空


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雲に光

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雲に光。金色の。

落ちた太陽からの最後の贈り物。



雲に光/空


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ヘンリ・ライクロフトの私記

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ヘンリ・ライクロフトの私記

ジョージ・ロバート・ギッシング





 かつてジョンソンがいった。「君、貧乏がけっして不幸なことではないという議論が多いが、そういう議論そのものが、結局は貧乏が明らかに大きな不幸であることを証明している。たくさんお金があれば幸福にくらせる、ということをやっきになって説こうという人間はまずないからね。」

  この率直な、常識の大家ジョンソンの言葉は、誠に人生の機微をうがっている。貧乏なんてものはもちろん相対的なものであって、貧乏という言葉はなかんずく各個人の知識人としての地位と密接な関係がある。新聞の報ずるところが本当であれば、週25シリングの定収入さえあれば、なんぼなんでもわたしは貧乏人でございますなどといえた義理ではないと思われる、れっきとした貴顕淑女がイギリスには幾人もいるのである。その連中の知的欲求ときたら、まるで馬丁や下働きの女中のそれと同じなのだ。同じ額の収入が私にあれば、生活だけはやってゆける。しかし貧乏であることははっきりしている。

  人々は、お金では貴いものは買えないという。そういうきまり文句こそ、貧乏を経験したことのないなによりの証拠なのだ。いかにも私は一年にいくばくかの金を稼ぐことはできた。しかしあと2,3ポンドという金が手に入らなかったばかりに、私がこうむった悲しみと寂しさを考えるときに、お金のもつ意義に対して私は今さらのように憮然として嘆ぜざるをえないのである。ただ貧乏であったために、すべての人間が当然の権利として求めるかりそめの幸福の数々、快い喜びの数々を私はいかばかり失ったことであろうか。来る年も来る年も果たされなかった愛する人々との出会い。私がしたいと思ったことも、ほんのわずかな助けさえあればできたはずのことも、結局それがどうにもならなかったために生じた悲哀や誤解や、否、みじめな疎遠など。ただ乏しきがゆえにささやかな娯楽や慰安を切りつめたり諦めたりしたことも数限りなくある。ただ生活が苦しいという一事のために友人を失ったこともある。また友人として交際できるはずの人々も遂にあかの他人として終わったこともある。骨を噛むような孤独が、切ないほど心から友を求めているのに冷たく強要された孤独が、幾度か私の生活をみまったが、それというのも全く私が貧乏だからであった。どんな善行だって現金さえあればなんとかできるといってもほとんど過言ではなかろう。

  「貧乏は」とさらにジョンソンはいった。「全く大きな不幸なのだ。しかも多くの誘惑、多くの悲惨をもたらす不幸なのだ。したがって私は心からそれを避けるよう諸君にすすめざるをえない。」

  私自身は、貧乏を避ける努力をせよという、そんな忠告は不要であった。ロンドン中の多くの屋根裏は、貧乏というこの面白くもない相棒といかに私がいがみあったかを知っているはずだ。貧乏神が最後まで私につきまとわなかったのを私は不思議に思う。それは自然界における一種の気紛れかもしれない。もし気紛れだとすると・・・・・・しばしば真夜中に目をさました時などになんとなく私が不安にかられるのも実はこのことなのだ。



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終わり、そして始まり

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早かった仕事帰り、夕日が沈んで行った。

あくまでもどこまでも輝きながら、太陽は光を投げかける。

わたしの一日は終わり。
暗く落ち着いた夜が待っている。

どこかでは、朝の最初の光が、一条差し始める。



終わり、そして始まり/空


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空を見上げる

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人が行き交う歩道の上で、首を真上に向けて空を見てたら、
絵になる図だけど、現実世界じゃ変だよね。

見上げれば細かい雲。
空は明るい空色。空色という色は、明るさを持っている。
風が雲をちぎっていく。

ふと見上げると空が青くて、首を真上に向けたまま立つ。
構図はよいけど、現実世界じゃ邪魔だよね。



空を見上げる/空


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夕日オレンジ

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ふと見たら、向こうの空がオレンジだった。

オレンジ色のグラデーション。

こんなにオレンジなのは、初めてだった。



夕日オレンジ/空


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高い空

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高くなる空。秋の始まり。

地上は残暑。夏の終わり。

でも空には秋。もう来ている。



高い空/空


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雲の中にある

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太陽は雲の中にある。

天の国が雲の中にある。

たくさんの画家たちが、描いてきた天の国の絵。
それはきっと、太陽マジックに触発された――



雲の中にある/空


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あと何回

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“あと何回、こんな空を見られるかわからない”

若者が歌っていた。
「だから今を大切に生きよう」

わたしは「あと何回見られるかわからない」というところだけに反応する。

これまで見られなくなった空を考える。
  子供の頃に音楽のおけいこまでよく自転車で通った道。あのとき見た夕焼け。
  今はもうそこに住んでいないので、夕焼けの時間にちょうど通ることもない。

  学生の頃にいつも悲しくなった夕暮れ時。あのとき見た黄昏の空。
  その時間はまだ職場の中にいて、もう黄昏を見ることはあまりない。

  実家の裏手から見えた空。畑があって、小さな山が見えて、それから山が見えた。
  その先に見えた空も、今はない。畑はなくなり、塀ができた。

同じ空の色、同じ雲の色、同じ形に出会うことはない。
それだけでも一期一会だけれど、
本当に、ずっと見られるとは限らない、そういうものだよ、と考える。

たいそうなことがなくても、変わってしまう――見られなくなったりする。
本当にね、そういうものだよ。



あと何回/空


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いずこも同じ景色

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たくさんの壮大な神が祀られる土地でも、
いつかどこかで見た風景がある。

ああ、ここはあそこだ――
小さい頃、ときどき行った、あの――



いずこも同じ景色/神の土地


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芸術とはなにか

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芸術とはなにか

ヘンドリック・ウィレム・ヴァン・ルーン

(『芸術とはなにか』第一章より)



 ・・・・・・・・・・・・
 芸術家のいわゆる「魂」というものについても、余りそれにとらわれる誤りをおかしてはならない。かれも魂をもっているが、べつだんわれわれのものと非常に違ったものがあるわけではない。一生かかっても線一本かけず、曲一つつくれない人々の間では、芸術家の心理というものがいつも議論の種になる。本当によい芸術家はたいてい、自分の仕事でいっぱいで、かれの不死の魂の心理的下部構造とやらにはちっとも気をかけない。しごく単純な人間らしい。仕事はかれにとっては、たまたまかれが恋をしている女のようなものだ。彼女のためならどんなものでもささげるであろう。彼女はかれのあらゆる忠誠の対象である。彼女がなぜ好きなのか、は、女をバスに乗せてランデヴーに出かける仕上げ工ほりもよく知っているわけではない。また全くそんなことには関心もない。
  そこに彼女がいる。
  だからかれは彼女を愛する。
 それだけのことだ。なぜかれの魂や心理的反応とやらについて愚問を出して、かれを困らせるのか。かれは本当に知らないし、気にもかけていないのである。
 どんな芸術家も法律の枠をこえる権利をもってはいない。だがわれわれと同じように、同輩から成る陪審員によって裁判をしてもらう権利がある。
  これはいつからとはなしにわれわれの文明生活を支配しているルールである。それはまた芸術の領域でも守られるべきである。
 しろうとが熟練した外科医や技師の仕事について意見を求めることはまずないことである。それならばなぜわれわれは、盲腸をとったり、橋や地下鉄をつくったりする人と全く同様に、個人的な方法で自分を表現する芸術家に対して、同じ寛容さをもてないのであろうか。


 ところで(というのはこの章が余り長くなったので)、いったい芸術家とは何か。
画家とは、「私は見ていると思う」と語る人であるにすぎず、またそれ故に、かれが見たと思うところのものを、もしわれわれの目がかれの目と調子が合っていれば、われわれにもそう見えるように、表現する人であるにすぎない。
  音楽家とは、「私は聞いていると思う」という男女のことである。
  詩人とは、「これは私が自分の個人的な夢をある種の普遍的なリズムで一番よく表現できる方法だと思っている」人なのである。
  作家は、「起こった、あるいは起こったかもしれないと私が想像した物語をしよう」というのである。
  すべてこういった調子である。
 芸術家の一人一人はそれぞれ、たんに一種の「レコード吹込み器械」にすぎない。そのレコードがわれわれに何かの意味があるか、または全然ないかは、かれの知ったことではない。ウグイスもカラスもわれわれの意見などどうでもよいのだ。かれらはほかのウグイスやカラスによく思われようとして一生懸命に鳴いている。ウグイスがカラスにとりまかれたり、その逆だったりするときは、まことにあわれである。だがどうすることもできない。
  ・・・・・・・・・・・・



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姫神さま

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ここには姫神さまもいらっしゃるという。

明るい光が中から射してくる。

ご機嫌うるわしくいらっしゃるのだろうか。
ひっきりなしに祈る参拝者の願いを、
鷹揚に聞いてくださっているのだろうか。



姫神さま/神の土地


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神の住まい

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あの奥に神の住まい。

扉は開け放たれ、神聖な神体が遠くに見える。

神はおわすのか。あそこに。
そしてわたしたちは守られるのか。



神の住まい/神の土地


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朱色の

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朱色に彩られた、夜を守る社。

人が並んでお辞儀する。
どうかかなえてほしいと願いを述べる。



朱色の/神の土地


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カフェ

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神詣での人が行き交う通り。

カフェ――古い家を活かしたカフェ。



カフェ/神の土地


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線路

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今は通る列車もない。

すすきが穂を垂れる。

往時のままの姿で横たわる線路。

今は通る列車もない。

すすきが影を落とす。



線路/神の土地


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かつての駅舎

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かつて人でにぎわった駅舎。

かつてこの土地に来るには、誰もが乗った列車。

かつて神聖な土地に来る人でにぎわった場所。



かつての駅舎/神の土地


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建物

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それは奥の奥にあった。

静かに立っていた。

中に像が置かれていた。



建物/神の土地


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小さな社を望む庭

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大小さまざまな神が、大小さまざまな社に祀られる場所。

小さな、人も参らない奥に、小さな社。
そしてそれを望むように、草原。

ベンチなのか、写真用の立ち台なのか。

木々がそっと天蓋をつくる。



小さな社を望む庭/神の土地


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神の土地を流れる川。

ただの水だけれど、
なんてことない小川だけれど、

神に守られた土地を流れる川。



川/神の土地


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